押井監督と小島監督とは何者か?
私には特に好きな映画監督が2人いる。押井守監督と小島秀夫監督。
押井守監督の映画の特徴といえば、常人には理解に苦しみ、容易な感動を与えず、多くの人々を遠巻きにしてきたことで有名なのは言うまでもない。そんな押井監督の映画をネットでこう表現した記事を見かけた。
「大ヒット映画は100人が1度みたことがあるというだろう。押井映画は、1人が100回観る映画を撮る」
押井映画のファンである私にとってこの表現は非常に共感できるものだ。これはいったどういう意味か?
それは、100回観ても新しい発見がある映画ということである。だから好きな人は何度も見返す。難解な物語を徐々に理解し、何気なく見過ごしていた演出から膨大な量の情報を見出せば、あなたも立派な押井ストの仲間入りだ。
だがそんな彼の映画で商業的に成功したものはそう多くはなく、観る人を選んでしまうことは否定できない。
一方、小島監督は世界的に有名なゲームクリエイターだ。メタルギアシリーズは言うまでもないがZ.O.Eシリーズやポリスノーツといった、バリエーション豊かなSFゲームを多く手がけている。そんな彼のツイッターの自己紹介にこんな一文がある。
「僕の体の70%は映画でできている」
言葉の通り映画が大好きな彼のゲームには映画的な演出が多く取り入れられている。彼のゲームは映像作品としても非常に見応えがあり、目を引くカットや演出がとても多い。
2人の監督の物語には共通した作家性を感じる。
それは、現実にある何気ない、拡大しなければ気にもとめない小さな事象を膨らませ、物語へと発展させていくといったものである。
劇パトとMGS2も2人の作家性が顕著に現れているのだが、この二つの作品を取り上げたのには理由がある。
それは、この二つの作品は共通したテーマが含まれているからだ。その前に、二つの作品の概要から説明しよう。
劇パトといえば1989年に公開されるや否や、まだパソコンが一般家庭に普及する以前からコンピューターウィルスを用いた犯罪をテーマにした物語が、そのあまりにも早すぎる先見性に満ちたストーリーに、世間が驚愕した映画だった。
というか殆どの人がそこしか褒めていなかったりするのだが、この映画の真髄はそうした先見性といったありふれた特殊性には収まらない。
一方MGS2は、スネークを主役にした物語と思わせつつ、雷電という2枚目の色男が主役だったことや、難解な物語で酷評された作品だ。
もう一度スネークを操れることに期待していたプレイヤーはがっかりしただろうが、MGS2は雷電が主役でなければならない理由が多くあることに気付いた人は、あまりいないように思える。
ちなみに私は両作品とも大好きで、その鮮烈かつ非凡な物語性、そんな考え方があったのか!という閃きはまさにセンス・オブ・ワンダーであり、このレビューを読んでくれた方が1人でもこの両作品に興味を持ってもらえればと思ってこの記事を書いている。
さて、両作品には共通したテーマがあると言ったが、それは何なのか。
それは「現実をプログラムすること」である。
なんのこっちゃ?
わけわからん。
そもそも2作品とも知ってるけど、そんなこと微塵も感じたことねーよってのが大半でしょう。
現実をプログラムだなんて甘美な言葉、その発想自体が面白いし、それを映画やゲームにしてしまうのだから、恐ろしい世界観である。
現実をプログラムするとはどういうことか?
知っての通り、プログラムといえば書き込まれた言語をコンピュータが読み込んで、命令の通りに実行されることなのだが、両作品はプログラムを施された現実をランする世界が描かれている。
劇パトは一見すると、帆場の仕掛けたコンピュータウィルスにてんやわんやする特車2科のドタバタ映画にみえる。だがこの映画をそう簡単に終わらせることはできない。
劇パトは大きく見れば、帆場暎一がプラグラムした現実をランする世界の物語だ。帆場暎一が仕掛けたウィルスにより、東京はレイバーの暴走事件が多発する。
ウィルス起動のトリガーはバビロンプロジェクトにより建造されたノアの方舟だ。しかも帆場は、自身が捕獲されることによって計画が頓挫するというエラーを避けるために、物語の冒頭で自殺してしまう。
つまりこの映画は、帆場の死と同時に起動したプログラムなのだ。革新的なOSを創り上げた帆場のプログラミングは現実に存在するものにも組み込まれている。
劇中の通り、OSに仕組んだウィルスだけでなく、方舟という建造物、更には台風という自然物すらもトリガーに利用し、自身が組んだプログラム上のスイッチとして配置した。そ
れはまるで、オルゴールの歯車を弾いて音を奏でる針に似ている。
そしてそんな帆場は、自身の計画が阻止されるであろうことも予想していた。だから帆場は劇中の最後、レーダーに方舟に取り残されたかのような形で帆場の名前が表示されるように仕組んだのだ。
その正体は、帆場のIDを足に括られたカラスだったわけだが、既に死んでいる帆場の名がディスプレイに表示されたとき、特車2科の面々にはまるで亡霊のように映ったに違いない。
次にMGS2を振り返ってみる。MGS2はテロリストに占拠されたプラントをテロから解放する雷電の物語だ。当初はテロリストと激しい戦闘を繰り広げていたが、物語は終盤で急激に毛色が変わる。デタラメな無線を送信し続ける大佐を筆頭に、オセロットから唐突に告げられる、全ては計画された演習だったという真実。
ただ単純に遊んでいるだけだと、訳もわからず大佐が狂って、全てが演習ってどういうことだ?
何やらデジタル化が進みすぎると、世界で取り返しがつかないことになると延々と聞かされて物語は終わってしまう。
なのでこの作品は少し見方を変える必要がある。全てが演習だったというのは、全てが計画されて、作り出されたものということである。
それは、雷電が優秀な兵士になるところから、テロを阻止するところまで全てが計画だったということが劇中に明かされている。
つまりMGS2の物語は、テロリズムを抱かされたソリダス、自身が女神と思い込まされていたフォーチュンらデッドセルによる、愛国者達により計画され、誘導されたテロという物語なのだ。
そんな彼らが起こしたテロは1人の兵士によって挫かれる。かつてスネークが解決したシャドーモセス事件をVRで追体験し、スネークと同等の実力を備えさせようと、愛国者達にプログラムされた兵士。
それが雷電だ。
スネークやリキッドがビッグボスの遺伝子によって優秀な兵士であるようにプログラムされたように、雷電もまた、追体験という手段によって生み出された新たなスネークなのだ。
MGS2とは、人々をテロリズムに導くことは可能か?そしてそれを制御することは可能か?という検証の物語なのだ。
そしてそれは、国境を跨いで世界を制御できることを意味する。敵国を滅ぼすのにもう武器は必要なくなるだろう。優しく、無意識的に敵国の国民をテロリズムに導いてやればいい。
もしテロが過熱しすぎても、充分に訓練された兵士たちで鎮圧してやればいい。MGS2とは、そういった物語なのである。
これら二つの作品は「現実をプログラムする」こととはどういうことなのか、どういったことが起きるのか、そしてそれは我々をどのような世界に導くのかについて、徹底して描かれている。
こんなにも想像を越えた物語をみせてくれる作家はそう多くはない。ただ異色な作品ではない。ただ奇妙な物語なだけではない。彼らの作品には、我々の未来で起きるかもしれない、リアリティに溢れた想像力に満ちている。
現実世界と向き合っているからできる想像力
彼らの創造した物語は荒唐無稽に感じるかもしれないが、はたして本当にありえないことだろうか。
私はそうは思わない。
我々もまた、世界中に氾濫する情報によってプログラムされている。
テレビコマーシャルを見たとき。或いは YOUTUBEで広告を見たとき。学校で教育を受けたとき。友達から噂話を聞いたとき。その情報の真偽を問わず、我々はその商品が良いものと信じて買い、信じてサービスを受け、好いて、そして嫌う。
劇パトは既にそうした世界が完成していることを描き、MGS2は情報の精査をしなければ、我々は言われるがままに都合よくプログラムされてしまうことを描いている。
自身の身の回りにあるものに目を向けてみてほしい。どこもかしこも人工物で溢れている。住みやすい住居。不快にならない程度の自然物たち。整備された河川。人類は既に自然すらも制御下に置いている。
国家や企業が次に制御したいものは民衆だ。この動的で移ろいやすく、安定しない人という生物を管理することができれば、理論的に国家は永続し、企業は利益を得続けることができる・・・かもしれない。
こうした、かもしれないの仮設を立てると、どんな世界が広がるのだろう。そんな素敵な想像を駆使して創造するクリエイターが彼らなのだ。
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