チェンソーマンから垣間見る藤本タツキ
漫画家藤本タツキは令和を代表するモンスター作家だ。当ブログでもチェンソーマンの記事を投稿している。チェンソーマンについては伝えたいことがたくさんあり、たった一個の記事ではその全貌を伝えることができない。
私はチェンソーマンを含む、ファイアパンチ、ルックバック、さよなら絵梨、短編集の全てを読んでいる。
そんな私には、藤本作品はそのどれにも面白いとは何かと言う追究の裏に、哲学的な問いかけが仕掛けられているように感じる。
チェンソーマンでは当初、主人公であるデンジの非常識で型破りな言動や行動で公安どころか悪魔も恐れるデビルハンターとして成長していく。
その型破りな発想の根源には、学校すら通っていなかったデンジ特有の幼稚な発想、シンプルな思考ゆえに低い次元の幸福観が由来する。
ところが、第二部である学校編においては、デンジは自身で決断することの苦悩や、世に溢れるより大きな幸福を知り、どれだけ幸せを追求したところで、現状に満足することなどないという人生において最大レベルの悪夢に辿り着く。
知能とはより多くの事象を捉えることができる反面、時には知らなくとも良かったことを鋭く抉り出してしまうもの。
チェンソーマンは知能とは幸と不幸の表裏一体であることを鋭く表現している。
デンジはより大きな幸福を知ることで、足るを知るということを失った。
飯が食えて布団で寝るだけで満ち足りていた生活は日常へと成り下がり、今は新たに名声を欲し、肉欲を夢見る。
こうして常に自分には無い何かを欲しては、手にいれるたびに別の何かへ目移りし、そこには満ち足りることのない一生を知る。
さらには満ち足りた人生というのは凪のように穏やかであり、それ故につまらないというどうしようもないオチが待っている。
高校編のデンジは毎日つまらなさそうにしており、ジャンプ+でそれを読む読者のコメントにはつまらないという作品としてもエンタメとしても百点満点の感想でいっぱいだ。
読者につまらないとコメントさせる藤本タツキという作家には本当に舌を巻く。
渇望し、愚かで刺激的だった公安編から、平和でのほほんとした高校編は読者にとってさぞつまらない漫画に写ってしまうだろう。
そしてそのつまらないという感想それこそが、同じくデンジが感じているものであり、そういった意味においてデンジと読書は同じ境遇にいると言える。
ここで藤本タツキが作家としていかに鋭い視点を携えているかを垣間見ることができる。
今や読者はコメントであの公安編の刺激的なチェンソーマンを返せと叫ぶ。
だが同じ言葉を果たして自分自身へと投げかけることができるだろうか?
働き、身を粉にして固めた僅かな給料を握り締め、そうしてようやく手に入れていくであろう家族や家庭を、刺激のある面白さそれだけのために全て捨てろというその無責任さといったら無い。
おそらく、チェンソーマンがジャンプ+に移行したのはコメント機能があるからであり、これは作者の確信犯だと推測する。
藤本タツキは読者につまらないというコメントをあえて吐き出させた。
読者もまたチェンソーマンを信仰する教会の一員であり、今や信仰する偶像に裏切られた哀れな暴徒なのだ。
藤本タツキという作家は作品を通して我々が生きる三次元世界に干渉し、自身の作品を鏡にして読者へと突きつけている。
おそらく、多くの読者は鏡に映されている自分の姿さえ捉えることはできない。
こうして藤本タツキは、面白い物語とは誰かの不幸から始まり、その境遇をどのようにして切り開いていくかが根幹にあることを絵と言葉で見事に描き、そして面白い物語りを望む者たちの無責任さを鏡写しにすることに成功した。
バルエム
“完璧なチェンソーマンになる為に必要なものはふたつ。皆の恐怖とお前の不幸だ”
上記の通り、藤本タツキはこの世界で起きている現象に独自の視点で切り込んでいく作家であることが見て取れる。
そしてそれは、今回紹介するルックバックにも如実に顕れている。
ルックバック
ルックバックは創作賛美という表現を見かけた。実際にこの作品に影響を受け、情熱を新たに机へと挑む人も多いのではないだろうか。
かくいう私もその口で、金にも名誉にもならない文字列を今もこうして並べている。
ただルックバックの創作賛美という表現は、厳密には正ないように思える。
ルックバックはかつて何かに情熱を捧げた人、もしくは今もなお何かに情熱を捧ぐ人のこれまでと、これからの姿をくり抜いた、ただそれだけなのだ。
創作の背中
この映画はまず、4コマ漫画のネタに悩む藤野の背中から始まる。
たっぷりとした時間が、その背中のカットに使用される。
そこには何かに夢中になってのめり込む子どもの無垢な健気さがある。自身が捻り出した世界が誰かを楽しませることの楽しさ、喜び。
ただそれだけを求めてふける夜も気にせず、ただ湧き上がる情熱に従う。
彼女の漫画を見て笑う同級生たち。皆の娯楽をコントロールしているかのような万能感。
足の速さ、野球の上手さといったように、藤野もまた漫画という手段によって自己のアイデンティティの単純を積み重ね、知らず知らず大人へのステップを踏んでいた。
だが愉悦の日々は同級生、京本によってひっくり返る。
彼女の描く絵は漫画ではなかったものの、えの美しさは藤野の比ではなかった。
衝撃的だった。
京本の絵は見事に藤野を突き刺した。
この日を境に、単純に好きなものにのめり込むだけだった藤野の背中は、京本に追いつくための修練の熱を帯びていく。
衝撃し、嫉妬と憧れ、一言では片付けられない渦巻く感情を胸に、上手くなりたい一心で絵を学び、描き続ける。
気がつく間もなく彼女は孤独となった。友人、いや、家族ですら彼女の情熱は理解し難いものだった。
京本に追いつこうと躍起になったが、何枚も絵を書くうちに、やがて自己の才能の限界に気がつき始める。情熱は枯れ、藤野はなんてことはない日常へと埋没していく。
漫画で皆をコントロールするような愉悦は無くなってしまったが、平凡な毎日は幸せだった。
やがてその背中のあり方は、ライバル視していた京本と関わることによって違う意味を背負い始めていく。
人は変化することから逃れられない
京本は藤野と共に漫画を描き始めたことで次第に変化していく。ただ引きこもって絵を描き続けていた彼女だったが、その絵をより高次元に引き上げたい一心で美大を目指すことになる。
藤野と共に過ごす時間は彼女にとって衝撃的な毎日だった。少なくとも、一度は外の社会から逃げ出したの彼女がもう一度外に出ようと思えるほどには。
いや、四コマ漫画という形で学級新聞に寄稿していた時から、京本は藤野に多大な影響を受けていた。そもそも京本の絵は漫画ではなかった。
それでも四コマ漫画という形にしたのは、藤野に対する憧れがあったからに他ない。
だが変化していたのは京本だけではない。
藤野もまた、京本の絵を見て上達したいと考えを改めた。
二人は出会う前からお互いに反響し合っていた。
藤野は京本の絵の美麗さに、京本は藤野の物語性に。それは互いに持ち合わせていない才能だった。
そして二人の反響は漫画という枠を超えて二人の未来、選択肢すらも変えていった。
人は意識的であれ無意識であれ、変化することから逃れることはできないのだ。
創作物の本質
創作物というのはまるで鋭いナイフのようだ。
近づこうとしなければ意味を無さないし、その本質を見誤れば鞘に入れたままの刀身を握ることしかできない。
だがもしその本質を掴むことができたならば、そのナイフは自分自身に深く突き刺さり、引き抜くことはもうできない。まるで即効性の毒のように全身を巡り、自己の全てをバラバラにされてしまう。
そうした作品は何度も触れようとするだろう。その間にバラバラにされた自分の欠片を組み上げていくかのような感覚の中、やがて組み上げ終わる頃にはまるで違う自分になっていることに気が付く。
寄生獣の泉新一が心臓を一突きにされ、ミギーによって蘇生した後のような気分。
その後に見える景色には、ミギーの感覚が混ざり合っている。一度でも創作物に刺されたことがある人間には、理解できる感覚ではないだろうか。
私たちはこの感覚に出会える作品を求めて旅をする。残念ながらそう簡単には見つからない。たとえ見つかったとしても停滞することなく、また旅をし始める。終わりなんてない、ラゴスのように私たちはただ探し、旅を続けていく。
だから創作者とは鋭利なナイフを研ぐ鍛治師だ。
彼らが創り出すナイフは時間や空間を超えた無限の射程で、誰かの人生に大きく影響を与える。結果、良くも悪くも物事は動き出す。
ルックバックはそれを叙事的に描いたに過ぎない。そこに良いも悪いもない。我々は変化することから逃れられないのだから。
最後の背中
ルックバックにおいて藤野に多大な影響を受けた京本は不幸にも進学先の暴漢によって命を落としてしまった。
藤野は自分のせいで絵の道に進んだ結果、命を落とした京本に多大な責任を感じる。連載していた漫画を休載して塞ぎ込んでしまう。
このとき藤野は、自分が鋭利な刃物を研いでいることにまだ気づいてなかった。
だが、死んだ京本の部屋で藤野が見たものは、京本が藤野から受けた影響の断片たちだった。彼女の部屋には藤野の漫画が並べられ、小学生の時に書いたちゃんちゃんこのサインが今も掛けられていた。
藤野はなぜ今も漫画を描き続けているのかを改めて実感した。
彼女もまた、京本の一言で再び漫画を描き始めたのだったのだから。
こうして彼女は再びペンを握る。
その背中には漫画への情熱だとか、誰かに喜んでもらうことの愉悦とか、一言片付けることのできない様々な背景を帯びている。
その姿はまるで怨霊に取り憑かれたかのようにも見える。
だがきっと、それは当たらずとも遠くはない。
彼女のペンには京本が宿っている。
かつて京本の一言が藤野を漫画の世界に引き戻したのである。
その背中にどれだけの物語があったのか、読者は計ることができない。それは漫画の中で断片的に、抽象的に表現されるに留まる。
だがその背中には彼女が内包する物語の渦がある。
それは力強く、とても鋭い刃となって世界中を飛び回り、やがて数多の読者を貫くのだろう。
ただその瞬間のために練り上げてる。
情熱を捧げる者の背中
こ藤本たつきは情熱を持つ者の背中を知っている。
本来、この背中は誰にも見られることはないものだ。
大谷翔平やイチローが素晴らしい選手であることは周知の事実であるが、その領域に至るまでの血の滲むような努力の時間を直接見たものはそう多くはないだろう。
だが藤本たつきは知っている。
努力する物の背中を。燻り続ける情熱を抱く者の孤独を。
彼らの情熱は一般には理解しがたいものだから。
だが、藤本たつきは見ている。
彼は今も我々の背中を見ている。
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