シン・仮面ライダー感想:この映画を楽しむためのポイントとは?

映画のレビュー

予告された最後のシン・シリーズ

いや〜年度の終わりにとんでもない作品がやってきました。

というわけで遂に公開されました。「ゴジラ」「エヴァ」「ウルトラマン」に続く庵野映画最後の”シン”映画である本作。

仮面ライダーに黒いコートを着せた人は素晴らしいデザインセンスだと言う他ありません。仮面ライダーと黒いコートってこんなにしっくりくるもんなんですね〜。

「シン・ゴジラ」の手のひらを上向きにしたデザインも天才的だと思いましたよ。だって上向きにするだけで爬虫類っぽさが無くなって”神”っぽくなってたじゃないですか。

神は細部に宿るとはまさに。

そんなわけで仮面ライダーが蹴り技を繰り出す度に翻るコートは男のロマン掻き立てまくり。赤のロングスカーフのデザインも良い。

じゃあ良い映画だったんだといわれると、そう一筋縄にいかない。

「シン・ウルトラマン」でも言われてたけど、これはウルトラマンが好じゃないと楽しめないだとか、ウルトラマン好きには観たことのあるカットばかりで新鮮味がないだとか、古参ファンの間でも何かと賛否があって、今作シン・仮面ライダーも同じことを言われてるのがネットで散見されます。

そして、今から書き綴る私のレビューは仮面ライダーを1ミリも知らない人間の視点で語られるものなので、過去作を懐かしんだり、今作を他作品と比較することはできません。

そもそも映画をシリーズやファン向けではなく一つの作品として観る私にとって、本作は仮面ライダーだから観たのではなく、庵野映画だから観に行ったのです。

というか私は子どもの頃、仮面ライダーとウルトラマンが苦手でした。

虫が苦手だったので仮面ライダーは好きになれず、ウルトラマンの全身ピッチリとしたスーツもかっこいいと思えず苦手でした。

マシンやロボットが好きだったので戦隊ものはよく観てましたよ。

ごてごてした道具を駆使してた“ブルースワット”も好きでした。武器をしこたま積み込んだ黒い車がカッコよかったなぁ。

なんだか最近、公安職がよくメディアに出てるので、今こそ公安をモデルにした特撮を撮ってもいいじゃないですか?

良くも悪くも庵野映画

まぁこの見出しで説明なしにほとんど片付いてしまうのが庵野映画の特徴。いつにも増して劇中で説明口調のセリフが非常に多い。

映画やゲーム、漫画もそうなんだけど、説明口調のセリフってかなり寒い演出だよなぁ。映画なので本当は映像で演出するのが最も美しいんだけど、これは主人公の本郷が何も知らないから仕方ない。おそらく庵野監督はそれを理解してる。

エヴァQはほぼ何の説明もなく、シンジ君も何も理解できないまま物語は終わってしまうし。

まぁこれは、この世界とはこれが普通なんですという理不尽な恐怖を、シンジ君を通して我々へと向けた演出なのだろうけど、当時は庵野監督の新しい説教だとか言われてた気がする。違うけど。

そう思われたのは序と破がそれだけ観やすかったからだろう。

しかしどいうわけか、シン・仮面ライダーは説明が多いのに分かりにくい。これは私が仮面ライダーを知らないってこともあるんだろうけど、直感で理解し辛い専門用語が多い。

まぁこんなこと言っていて何ですが、そんなものは理解しなくてもいいし、理解させるつもりもない。主役の本郷もよく分かってなかったし。

大事なのはそれがどんな影響があるのかで、言葉の指す意味なんて大した価値なんてないのが庵野映画。

でもそれがなんだか気持ち悪いっていう人は一定数いるのは間違いない。

あなたは誰の仮面を被る?

映画の内容を端的に言えばシン・ウルトラマンと大して変わらないとも言える。これを観て心が動いたなら、次は君がウルトラマンだっていう作風と同じ。

ただ、そうやって片付けてしまうのはあまりに乱暴で雑な解釈だ。シン・仮面ライダーは少しアプローチの仕方が違う。

もう少し詳しく紐解いてみよう。

貴方が情熱を持って行ったことは、後に誰かが続く。シン・仮面ライダーとはそんな映画だ。”仮面”はこれからも受け継がれ続けると、劇中のラストで演出されている。

そしてこの映画はSHOCKERとの決着がつくことなく終わりを迎える。ここにこの映画の非凡性が垣間見える。

この映画は仮面ライダーとSHOCKERの争いの歴史、その一部である本郷猛に視点をフォーカスした物語だと言える。その本郷は、遂に最大目標に到達できずに道半ばで消えてしまう。

緑川ルリ子の意志を継いだ本郷。そしてそんな本郷猛の意志を継いだ一文字隼人。そしてそんな一文字の意志も、後に続く誰かが受け継ぐ。

だからSHOCKERとの決着は、いつかどこかでつくのだろう。今はそれで十分なのだ。

この世のほとんどの人間は、夢半ば、志半ばで敗れた者、諦めた者達だ。電車で吊り革を握りながら本記事を執筆する私も、いつか夢見たプロ野球選手になれなかった敗北者の1人だ。

貴方も私も、この世には夢敗れた人間が殆どだという事実を知っている。

更新の途絶えた誰かのブログやYouTubeのチャンネル。いつかテレビで観ていたミュージシャンの行方。子どもの頃好きだった芸人たち。映画のスター。閉じたシャッターで溢れる商店街。

私は彼らの姿を思い出しながら今、この記事を書いている。他の誰も見出すことができないであろう作品の魅力を引きずりだし、言語化しようと躍起になっている。

中でも私は、今はもう亡くなってしまった小説家、伊藤計劃の映画レビューがとても好きだった。こんな視点から映画を観る人間がいるのかと感動を覚えた。

しかし、氏は癌で亡くなってしまった。氏は3冊の小説と、屍者の帝国という小説の序盤を遺しこの世を去った。

彼の小説、レビューを読むことはもうできない。だが彼が遺した映画への愛と、ユニークな筆致が今も脳内で燻り、氏を再現しようと燃え続けている。

だから私は今、伊藤計劃の仮面を被り、この記事を書いている。

彼ならどのようにこの映画を観ただろうと、想像しながらスクリーンを見つめている。

そんな伊藤計劃氏は生前、庵野監督のエヴァを評価していなかった。庵野監督がエヴァで採用した演出技法は、ハリウッドの安心して観れる定番の演出技法だと批判した。

だがどうにも、私は伊藤氏の仮面を被っていてもこの映画を批判することはできそうにない。伊藤計劃は生前、小島秀夫監督の作品の大ファンだった。だから氏の小説には小島監督の遺伝子をいたるところに感じる。

伊藤氏もまた、小島監督の仮面を被っていた。

仮面を被るとはつまり、誰かの情熱を手にしたということだ。

きっとこの映画は、何かに本気で挑んだことのない者にとって理解し難い映画だろう。

誰かの情熱を手にし、その仮面を被るというのは饒舌し難い貴重な瞬間であり、誰もが経験できることではないからだ。

だからこの映画は賛否に大きく別れる。だがそれでいいのだろう。観た者の内面を顕にするのもまた、映画の魅力の一つなのだから。

終わりに

というわけで、面白い面白くないはさておき、私にとってシン・仮面ライダーはとても好きな映画でした。

私は仮面ライダーのことは全然知らないわけですが、仮面ライダーで仮面を被ることの意味を問いかける物語ってかなり粋な演出じゃありません?

原作もそんな話だよと言われれば勉強不足でごめんなさいなのですが、凄いセンスだな〜と感心してしまいました。

そして誰かの情熱の仮面を被るって考えは、たぶん私の誇大妄想じゃないと思うんですよね。

だって本郷猛と緑川ルリ子のプラーナは仮面の中にあるわけだし。そんな彼らの情熱の仮面を、一文字隼人が被るというのは、もう間違いなくバトンタッチの演出に他ならないでしょう。

たぶん近いうちにもう一回観に行くと思う。もう既に映画を見終わって、モヤモヤを解消したくてこんなへんぴなブログに飛んできた貴方も是非、もう一度ご覧あれ。


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