押井映画がなぜ眠くなるのかを解説

映画のレビュー

ヴィム・ヴェンダース監督の影響

タイトルの通りである。押井監督がヴィム・ヴェンダースの影響を強く受けていることは、本人も自著の書籍で述べている。

こうして押井監督の作品や著書を辿ってみると、押井監督自身がどれだけ多くの作家に影響を受けているかがよく分かる。
唯一無二に見える監督の映画も、元を辿れば様々な作品の集合体なのである。

その唯一無二性は確かな知識に裏付けされた設定や川井憲次の音楽、理解あるスタッフの協力による影響が大きい。

作家一人だと影響を受けた誰かの模倣に過ぎなくとも、スタッフの手を介した僅かなズレが押井監督の映画を唯一無二に引き上げている。

本人曰く、川井くんの音楽がなければ自分の映画なんて大したことないらしい。
これは自虐ではなく、映画における音楽の重要性をヴィム・ヴェンダースの映画を通して理解しているからである。

50年映画50本では映画を無音で観ることをお勧めしている。
監督曰く、映画は無音で観たときにカットの隙がよく分かるそうな。
さすがに私は映画をそのように観ないが、この言葉の意味はある程度理解できる。

要は、本来退屈なカットを音楽で誤魔化していたら無音にするとバレてしまうということだ。

そもそも押井監督の映画はほぼ無音に近い、アンビエントな音楽が流れることが多い。
ゴースト・イン・ザ・シェルの解説でも触れているが、物語終盤の戦闘でさえアンビエントな音楽が採用されている。

揺蕩うような、ぼんやりとした解像度の中で淡々と戦闘行為が流れていく。

これは決して押井監督の趣味ではない。
戦闘とは本来、音楽で盛り上がるものではなく、銃声と自然音、停滞する時間であることを監督が理解したうえで狙った演出なのだ。

そして、こうした音楽の起用は、ヴィム・ヴェンダース映画でも通じている。

ヴィム・ヴェンダース監督のお勧め映画

やはり鉄板のベルリン・天使の詩をお勧めしたいところではあるが、押井監督はこの映画は変に見えるらしい。
そんな押井監督が好きなヴェンダース映画はパリ、テキサスだそうな。

ヴェンダースの映画はベルリン・天使の詩みたいにぼんやりした音楽とぼんやりした物語が多い。
というか他の映画に比べるとパリ、テキサスは普通に観れる。
まぁ私はパリ、テキサスも好きなんですが。

ベルリン・天使の詩とことの次第なんて物語は違うけど演出はほぼ同じだからね。
ぼんやりとした音楽とぼんやりとした物語。

ことの次第は映画制作の話だけど、ベルリン・天使の詩は文字通り天使様のお話だから、ヴェンダースの映画の雰囲気にかっちりハマってる。

ただ映画ってかっちりハマってたら良い作品なのかと言われればその限りではないし、押井監督の映画が好きならどの押井映画も楽しめるように、ヴィム・ヴェンダース監督の映画を楽しめるならどれも面白く感じるはず。

パリ、テキサスの音楽

この監督の映画で最も印象的なのは音楽である。
音楽の良い悪いではなく、ヴィム・ヴェンダースの映画において音楽は映画特有の時間の流れを演出していることがポイントとなる。

映画の時間とはつまり、間延びしたり速度が上がったりと、映像と音楽で醸し出す現実とは異なった時間の流れのことを指す。

軽快なリズムでテンポよく進む映画は珍しくない。
しかしヴィム・ヴェンダースや押井監督の映画は時間を遅延させる。

両者の映画は映像だけでなく、音楽で更に間延びさせている。
それはまるで延々と続きそうなほどにのっぺりとした演出となっている。

二人は映画にはそうした音楽が必要なのをよく理解している。

パリ、テキサスでは、主人公のあの冴えないおっさんがソロギターのBGMのおかげでより冴えない具合が増している。

だがどういうわけか、物語が進んでおっさんの歩んだ人生の背景が見え始めると、このBGMの聞こえ方も、おっさんのイメージも大きく変わっていることに気が付くだろう。

誰もが人生に背景があることを。
表面の裏にある時間の幾重を。

主人公がなぜ冴えないおっさんになってしまったのか、直接的な描写がなくても、ミラー越しに電話で話す元妻との会話、実子と歩く通学路といった映画の端々からそこはかとなく感じることができる。

だが最後は、どう足掻いても決別することのできない自分の愚かさを引きずりながら、ボロ車で夜のハイウェイを後にするのだ。
その時はあの音楽ポロンポロンとしたソロギターと、フロントガラスに反射する街灯の裏に覗く冴えない顔、そのさらに裏側にあった中年の哀愁が初めて見えるだろう。

ベルリン・天使の詩の音楽

ベルリンでは人の心の囁きが街中で常に反響している。

ヒソヒソとした声を、アンビエントでぼんやりとした音楽が包み込む。
誰もがそれぞれの人生を抱えて生きており、その姿を天使が眺めているといった内容の映画だ。

登場人物は詩的な方法で言葉を紡ぎ、会話というよりも一方的に話している。

この映画は普段は他人でありながら、同じコミュニティである街という空間で生きているという奇妙な現象を傍観することができる。

映画の天使の視点は、さながら映画を見ている私たちと同じといっていい。

映画の天使たちはただ人間を眺めたり、自殺しようとする者が思いとどまるように願ったり、だが結局は触れることのできない存在だと思い知らされながらもまた違う誰かに想いをはせる。

その姿はさながら映画をみる私たちと同じだ。

私たちもまた、劇中の誰かにこうあって欲しいと願うが、その想いが届くなんてことはない。

そしてこの映画を占める多くのカットは、何かをただ眺め続ける時間だ。

ただ何かを眺めるだけという途方もなく膨大な退屈。
そこにアンビエントな音楽が時間をさらに間延びさせ、遅延させていく。

そうすると次はいよいよ空気すら感じとれるかのような錯覚を覚える。

この錯覚はつまり、天使たちが感じている時間と空気だ。

人間と天使はあくまで同じ景色を見て、同じ空間に存在しているが、その見え方や感じ方は大きく異なる。
だからこの映画は灰色をしている。

彼らは決して決して人間と何かを共有することができない。

傍観するだけで、結末に辿り着くまでの過程に関与することができない。

だからこの映画が酷く退屈に感じるなら、きっとそれは正しい。

だが私はこの映画を楽しく見ることができた。

それはなぜかといえば、天使の時間という世界観に焦点を当てた映画なんて他にない。

まぁ押井監督の言うように変な映画というのも納得できる。

だが、これはこういう映画だよね〜みたいな話ができることで映画は映画たりえるような気がする。
ちなみにこれも押井監督の言葉。

膨大な時間を前にすると人は眠くなる

押井監督の映画が眠くなる人は、同じくヴィム・ヴェンダース監督の映画も眠くなるだろう。

人や街でもなんでもいいが、何かを描くということはその人や街が積み重ねた時間の膨大さを描くことだと両者は捉えているように感じる。

私たちの時間の基本は退屈でできている。

そんな様々な退屈が私たちを形作っていることを二人は知っている。

二人の映画はそんな多くの退屈で塗り固められた私たち人間の時間に肉薄しようとした。

だから彼らの映画は眠くなる。

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