【徹底解説】機動警察パトレイバー the Movie2のストーリーを解説

映画のレビュー

劇パト2とは

押井映画で最も好きな映画は何かと聞かれたら、私は迷いなくこの劇パト2を挙げるだろう。

だが劇パト2もまた、何が起きているのか理解できなくて寝てしまうという人が多い。そもそも押井映画はなぜ眠たくなるように設計されているのだろうか。

それは押井監督ヴィム・ヴェンダースに影響を受けているからだ。

押井映画の微睡は、ヴィム・ヴェンダース映画のそれと全く同じである。映画にしかできないあの独特の微睡んだ時間の原点を知りたいなら、是非ヴィム・ヴェンダース映画も観てほしい。

押井守
ゴースト・イン・ザ・シェルで世界的に名を馳せるが、その後も作風はブレない。コアなファン多数。

ヴィム・ヴェンダース
ドイツ出身の映画監督。代表作に”パリ、テキサスや”ベルリン・天使の詩”がある。

さて、確かにこの映画は特殊な訓練を受けた押井ストでなければ一筋縄にはいかない。

ましてや映画の内容には実戦に追いつかない戦闘法規、サイバー攻撃、破壊工作、諜報と、地味でしかも多くの人にとって興味の薄い事柄が、さも知ってて当然でしょとも言わんばかりに盛り込まれている。

だがそれ故に、この映画が映し出す物語は唯一無二なのである。

今回は、劇パト2をより理解したい人へ向けて解説、または魅力を語っていこうと思う。

↑4DX公開時のPV

※ネタバレ注意

各カットを解説

東南アジアで自衛隊が壊滅した理由

このカットを理解しなければ、物語の主犯である柘植の行動を理解することは難しい。
このカットではPKO活動で東南アジアに出動していた自衛隊が敵に攻撃を受けて壊滅するというものになっている。

だがなぜ自衛隊は壊滅したのだろうか。これはただの作戦上の不備や、訓練不足では説明できない。

その理由は、交戦の許可を求める柘植に対して、上層部は”交戦は許可できない”と命令を出す。攻撃を仕掛ける敵に対して交戦許可を出さないとはどういうことだろう。

それは行き届かない日本の法整備に原因がある。

自衛隊とは法律上では軍隊ではない。
あくまで国土を侵略されたときの対応という建前で(しかし、戦車もあるしミサイルも装備しているから実質軍隊と変わりはない)組織された機関なので、海外で作戦行動を行うことを前提に法整備されていない。

つまり自衛隊とは海外で任務を実行する組織でありながら、軍隊ではない以上、海外で戦闘行動をとることが法律上許されないのである。

なのでこのシーンは、自衛隊は海外で戦闘ができないにも関わらず、国際活動を行っているという非常にグロテスクな日本、ひいては自衛隊の実情を描いているのである。

PKO
Peace Keeping Operation(平和維持任務)の略。日本では国際平和維持活動と呼称されることが多い。
湾岸戦争に参戦を求められた日本はそれを拒否し、金銭的支援を行なった。これにより”金は出すが血は流さない”と世界中から痛烈な批判を受けた。
PKO活動は、世界中の危険な地域に自衛隊員を派遣し、復興支援をすることで、参戦はしなくともあくまで血が流れるかもしれない環境下にあることで、同じ境遇で戦っているように思わせた。

日本の思惑はどうあれ、結果的にPKO活動は戦争へと発展しそうな問題を抱えた国家の治安を高め、文字通り平和の維持に成功した。

結果、映画の通り東南アジアで戦闘が起きても上層部は交戦許可を出さなかった。柘植は自国が抱える問題を、部下の命で払うことになったというのがこのカットの演出だ。

この一連の出来事が、柘植という人物の行動の指針となっていく。

野明の「もういいの」

こうして物語は川井憲二の壮大な音楽と共に幕を開ける。

オープニングの Theme of Patlaberはガチ名曲。
この記事もこの曲を聴いて内容を思い出しながら書いている。

物語は新型レイバーの動作チェックを行う野明と遊馬のカットから始まる。チェックを終えて2ケツで食堂を目指す二人(二人とも警官)

その道中で旧式のレイバーを見かけ、乗ってみるかと遊馬に促される野明だが、野明はこれに「もういいの」と返す。これは後で解説するのだが、レイバーが大好きで育った野明がこうした返答をすることがどういう意味なのか。

たった一言で野明の成長を演出する素晴らしいカットなのだと、今はそれだけ記しておく。

後藤の「良いわけないじゃないの」

若い隊員が海沿いで釣りをする後藤に対し、南雲の帰隊時間が遅れる旨を伝えるカットがある。若い隊員はその後に”定刻となったから勤務を次の小隊に引き継いでもいいか”と提案する。

後藤は”南雲さんが戻らんからなぁ”と渋るが、最後は隊員の意思を尊重して帰らせる。ここに後藤という人間の人格がよく現れている。

公安とは、存在することに意味がある。警察がいるから民衆はそう簡単に悪さができないし、軍隊があるから戦争を安直に仕掛けることができなのだ。

部隊長不在(この場合は南雲と後藤)で勤務形態を変えてしまうと、今誰が有事に備えていてどこが担当しているのか不明確な態勢になることを意味している。

それはつまり、警察として機能不全していることになるのだ。

だが後藤は、それでも部下を怒ったりしない。この部下はやる気のない隊員であることは間違いないが、そんな部下をどう誘導するかが上司なのだと後藤は知っている。

やる気がないならやらなくていいし、それがいけないことだなんていちいち教えたりしない。

だが後藤は、自分の部隊長の帰隊すら待てない部下のやる気の無さが警察官としてどれだけ致命的なのかをよく理解している。

やる気の無い者を無理に働かせたりしない。定刻通り働いてはいるのだし。だがそこで帰ってしまうことが警官として何の役割も果たしていない事実がある以上その判断は”良いわけないじゃないの”となるわけである。

部下思いで、仕事熱心な後藤という人柄を表している。
それにしても、たった一言のセリフでここまでの意味を持たせる押井監督の手腕は驚嘆に値する。

幻の爆撃

この映画には幻の爆撃という名シーンがある。

自衛隊の基地から突如F-15(戦闘機)が飛び立ち、東京の都心を目指すというカットで、作中でもトップレベルの名シーンだ。
目的は不明。だが直前にベイブリッジを爆撃されていることから、空自は非常にセンシティブな決断を迫られるという流れになっている。

結果F-15は飛び立っておらず、柘植は空自の防衛システムのセキュリティホールを突いて、システムの画面上にのみF-15を表示させたというカラクリだったと、後の後藤と荒川の会話で判明する。
東京に爆撃を仕掛けられると考えた空自の幹部は、味方に対して迎撃命令を指示した。結果として命を落とした者はいないが、味方殺しの命令はそう簡単に出せるものではない。

この映画が公開されたのは1993年だが、まだパソコンもろくに普及していない時代にサイバー攻撃の描写をぶっ込む押井監督はマジの鬼畜生

実際に存在しないものに対してここまでの緊張感を演出する手腕は素晴らしい。

血まみれの経済発展

上記は後藤と荒川が堤防で会話するシーンに出るセリフだ。
歴史の教科書にも載っている通り、日本は高度経済成長を経て先進国へと発展していった。

だがその経済成長は何によってもたらされたものなのかを知っている人は少ないと思う。

その恩恵をもたらしたのは朝鮮戦争である。

朝鮮戦争は南(現韓国)と北(現北朝鮮)で分かれて始まった。当初、北側はソ連の支援もあり、南をかなり押し込んでいった。だがソ連の領土拡大を良しとしないアメリカは南側に援軍を出した。

結果、南側は息を吹き返したかのように戦線を押し返し、戦争開始時期よりも領土を拡大したが、お互いにこれ以上戦争を続ける余力もなかったため停戦となった。

ちなみに戦争は今現在も終わっていない。あくまで停戦中であり、終戦はしていない。


このとき、アメリカ軍を物資面と流通面で支援したのが日本だった。

これにより日本は莫大な利益をあげ、この大量の発注は朝鮮特需と呼ばれた。この利益が後の高度経済成長となり、バブル経済の足掛かりとなったわけである。

図らずとも日本は第一次世界大戦で永遠の繁栄を掴んだアメリカと同じ方法で経済発展を成し遂げたのだ。

永遠の繁栄
第一次世界大戦でアメリカはイギリスに大量の武器を支援した。それで得た巨万の富は、アメリカを覇権国家へと成長させた。この一連の出来事は、戦争は直接ぶつかり合うよりも、間接的に支援した方が国力が疲弊せずに財を築くことができるという一面を露呈した。

それから日本は電子機器や工業製品、車産業と様々な分野で成長を遂げ、名だたる大企業が多く生まれた。そのおかげで私たちは今もなお清潔で便利な生活にあやかることができている。

だがその恩恵は戦争がもたらしたという事実を知る者はそう多くはない。
荒川が言う血まみれの経済発展とは、こうした戦争がもたらす恩恵のことを指しているのであり、不都合な真実とは目を向けられないということを意味している。

治安の維持よりも出世を目的に動く官僚

ミサイル発射や戦闘機の出動疑惑に伴い、内部に武装蜂起を企てている嫌疑をかけられた自衛隊は、部隊長が警察に連行されるという恥を公然でかくことになった。

この一連の出来事で自衛隊は駐屯地警備を強化し、それに対抗して警察は駐屯地の眼前に警察隊を配備した。お互いに睨み合いもとい、潰し合いが起きる。

後藤は何の意味もないこの出動に辟易しながらも従事する。そしてたった一発のミサイルで内部分裂を起こさせた柘植の戦略的手腕に舌を巻いた。

このカットの示すところは、既に侵略戦争が始まっている可能性があるというのに、自身の出世に躍起になる役人の不様さだろう。国の平和がなければ出世も何もないというのに。

おそらく、役人や官僚は自国が戦争を仕掛けられていることにすら気づいていない。身も蓋もない話であるが、戦争が開戦される過程を経験した官僚なんてもう存在しない。

宣戦布告をしてハイッ始まり!・・・なんてことはないのである。

都内に配備される隊員と戦車

この描写が日本にとって戦争とは何かを決定的に表している。

東京都内に隊員や戦車が配備されるとなれば、異常事態に違いない。
しかし民衆はそれをパレードのように思い歓喜する。

普段日の目を見ない隊員も晴れ舞台に上がったかのように上気して、民間人と一緒に写真なんか撮ったりしている。

これこそが今の日本の戦争に対する認識を鮮烈に描いている。私たちにとって戦争とは、もはやどこか遠い世界の出来事になってしまったのだ。

歴史の教科書で学んだ、毎日のように感じていた苦しい思いは忘れ去られてしまった。兵器は憧れの存在となり、娯楽のように消費されるようになった。

それが彼らの歓喜の眼差しの正体であり、写真撮影の動機なのである。
誰も戦争の凄惨など知らない。任務に従事する隊員でさえ。

ガス攻撃

このカットでは、街中への毒ガス攻撃がいかに非人道的で見境のないものであり、反面どれほど効果的な攻撃手段であるかがよく分かる。

ガスは空気中に飛散するため、機密性の低い扉や換気口を容易に通過し、屋外から屋内まで浸透する攻撃手段だ。なので銃やロケットのような直射火器では届かない隠れた敵にも有効と言える。しかも安価で用意しやすい。

この攻撃でガスマスクを装備している自衛隊ですら大混乱に陥った。
自身の身を守ることすら難しい状況だ。当然、民間人の身を案じる余裕などない。

ガスをばら撒く。たったこれだけで市街地を抑えるこは簡単だと言わんばかりである。

二次大戦で強大な実績を残したガス攻撃であるが、そのあまりにも非人道的な攻撃手段ゆえに、ジュネーブ条約で使用は禁止にされた。

毒ガス
ドイツの研究員フリッツ・ハーバーによって開発された。フリッツ・ハーバーはノーベル賞を受賞し、開発された毒ガスは戦場に大量の戦死者を出した。理由は不明とされているが、妻であるクララは後に自殺している。

なら安心じゃないかと言われると決してそんなことはなく、戦争でガス攻撃はもう行われないなんて保証はどこにもない。戦争を仕掛けることに躊躇いのない国が、ガス攻撃はしないなんて考える方が難しい。

ましてや敵が国ではなく、柘植のようなテロリストだったら。交戦規定なんて守る必要などない。

命のかかった戦場において、敵に倫理観を求めるなど不可能なのである。

野明「ただのレイバーの好きな女の子でいたくないの」

私はパトレイバーは映画しか知らない。漫画もテレビアニメシリーズも観たことがない。
だが泉野明という人物が、レイバーが大好きで警官となったというのは、劇場版の1作目を観ていてもよく分かる。

そんなレイバー大好きな野明が上記のセリフを口にすることの意味について考えてみようと思う。

このセリフは、後藤から警官としての道を外れるであろう人生を賭けた任務を与えられ、受けるべきか断るべきかを遊馬と考えている時に発したものだ。

遊馬は走る車を止め「本当にいいのか」と問う。
上層部の命令を無視し、独立愚連隊を貫いた後藤の命令に従えば、もう警官を続けることはできないかもしれない。そうなればレイバーに乗ることもできなくなるぞという意味の確認だ。

対して野明は「まるで遊馬が迷っているみたい」と返し「迷うだろ普通」と遊馬は言う。

野明の心境の変化は、物語冒頭の遊馬に”乗ってみるか”と促され、断ったカットから既に読み取ることができる。これまでの野明だったら喜んで乗っていたに違いない。だが今作ではそれを断り「もういいの」と言う。

このカットで野明は既に覚悟を決めていたのだ。

ただレイバーに乗りたくて警官になった自分は過去となり、警官として果たすべき自己を追い求め始めたのである。

その言葉が「私もう、ただのレイバーが好きな女の子でいたくなの」と言うセリフの真意である。

子供心から生まれた、ただ純粋にレイバーに乗りたいと言う思いから、警察官として全うすべきことに実直であろうとするする姿には、頼もしさと同時にどこか寂しさも感じてしまう。

押井監督のたった一言にこれだけの意味を持たせられることに驚嘆してならない※二回目

演出とは何か。ただベラベラと心境を吐露することではないと実感させられた印象深いカットである。

自律機動護衛機との戦闘

特車二課のレイバーは警察の装備だ。当然、自衛隊の装備を施した敵を相手にして勝てるわけなどない。火力も装甲も人手も全く足りない。

戦争は勝てる勝負でなければ仕掛けることはできない。正面から突っ込んでも自衛隊と同等の装備をした柘植の部隊が待ち構えている以上、攻め込むポイントは慎重に選ぶ必要がある。

そこで選択した攻撃のポイントが、海底トンネルを守る護衛ロボットのみが配置された通路というのは理にかなっている。なぜこの場所の護衛が直接人が操縦するレイバーではなくロボットなのかというと、海底トンネルのように戦闘で天井に穴が開こうものなら、みんな溺れて死んでしまいかねないからだ。

自軍の兵士にそのような命を軽んじた任務を与えないところに、柘植と言う人物像が見て取れるとても上手い描写だ。

また、単純な行動しか行えないAI制御のロボットが防衛する位置を攻撃したのは、最も勝利する可能性が高いと踏んだからだろう。

カミソリ後藤の指揮官としての手腕が見事に発揮された描写だと言える。

幻の中で生きる私たち

この映画のラスト、柘植と南雲の会話はこの作品の全てを表している。

柘植「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える

南雲「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる

柘植の言う幻とは何だろうか。

それは戦争のリアルを忘れた国家一括りである。

かつて上層部の判断で交戦を許されなかった柘植は、なぜそのような判断になったのか、その原因を追い求めた。

そしてそれは人々の、戦争という現象に対する不鮮明な認識なのだと気がついた。

柘植の言う通り、我々はいつの間にか戦争という現象を正しく捉えることができなくなった。どこか遠くの国だけで起きている、時代遅れの夢幻かのように…いや、もしくはそう信じたいだけなのかもしれない。

だが現実として、韓国と北朝鮮は停戦中なだけであり、未だに戦争中である。
ロシアは知っての通り。そして中国が台湾侵攻に踏み切れば日本の隣国は全て戦争状態ということになる。

その事実を知っていると、日本にとって平和とは極めて細い糸の上に築かれた淡い夢のような時間のように思えてくる。

それを夢のままで終わらせないために柘植は叫んだ。戦争とは自分たちにとって対岸の火事ではない。

ついに誰にも振り向いてもらえなかった柘植はベイブリッジを爆撃し、ガスをばら撒き、サイバー攻撃を仕掛ける。

だがそこで見たものは、いつまでも夢を見続ける大衆の姿だった。

攻撃を仕掛けられても出世に躍起になる警察官僚。国よりも面子を守りたい自衛隊。街中に戦車が配備されて歓喜する民間人。

今まさに戦争が起きていることを認識した者は、後藤たちを除いて誰もいなかった。

柘植が南雲に言った「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える」というセリフは、全国民がありもしない現実を見ており、国全体が幻と化しているという意味である。

そのセリフの真意を裏付けるのが、南雲の例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる」のセリフだ。

南雲は幻であることを否定しなかった。

彼らにとってそれが現実なのだと答えている。

集団的幻覚にかかった我々には、この幻こそが現実なのだ。

だが夢はいつか覚める。

だから今だけは身を委ねよう。

夢のように淡い”平和”という瞬間に。

劇パト2は平和を問う映画

上記の通りである。

この映画は、平和を望むのなら本気で戦争という現象に向き合わなければならないことを描いている。

戦争とはいかにして起きるのか。何をもって開戦したと判断するのか。起こさないためにどう外交するのか。諸外国との連携は。

仮に起きたときの対処は。

むしろ起こしたらどのような利益があるのか。

こうして戦争を本気で考えた先にようやく平和がある。

この映画は93年に公開された。

今、私たちは何を見ているのだろう。

混沌とした現実の果てに、平和を掴んだのだろうか。

それともまだ淡い夢の中、蜃気楼の裏にある幻を見ているのだろうか。

令和になった今もなお、この映画は平和とは何かを問い続けている。

U-NEXTなら劇パト2を配信中(2023.12.18現在)

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