【進撃の巨人】進み続けた者だけが得る、エレンの選択を考察

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進撃の巨人は、平成に生まれたモンスター作品と言って間違いない。
原作は言わずもがな、アニメ版も傑作だ。正直、原作を映像化して、これほど高次へと高めた作品なんて他にはないんじゃないかと思う。

進撃を一つの何かだったと小さくまとめることは難しい。進撃は作中で様々な哲学を用いており、読者へと問いかけ、一つの答えを出しつつも、それが最適だなんて極端なことは言わない。

結果を求めれば何か別の代償を支払うことになり、作中では常に選択と決断を迫られる描写がある。
これは進撃の醍醐味だと感じる。

今回はそんな選択と決断の物語、進撃の巨人の主人公、エレン・イェーガーに焦点を当てて解説する。

エレンというキャラクター

エレンは思春期の少年特有の情熱や羞恥を持ったキャラクターだ。どちらかと言えば少年漫画特有の極端な馬鹿らしさもなければ、聖人というわけでもない。

現状に不満を抱えながらも日常でそれを解消しつつ、未来にそれなりの希望を持って生きている。

喧嘩っ早いところもあるが、現代に置き換えても珍しくない普通の少年だと言える。

だが一つだけ飛び抜けた能力がある。

行動力である。

そしてこれこそがエレンを主人公たらしめている。

進撃の物語は、エレンの行動力で成立する物語である。

エレンの変化

物語の冒頭、エレンは母の死をきっかけに復讐心が芽生える。
必死に戦う術を身につけた結果、念願叶いエレンは戦場へと降り立った。

だがそんな努力もあっけなくエレンは敗れてしまう。
絶体絶命の危機だったが巨人の力に目覚め、危機を切り抜けることに成功する。

しかし、やがて特別な力も敵に対抗策を練られて思い通りに行かなくなる。

エレンはそこで自分は何も特別な存在なんかじゃなく、できないことの方がはるかに多いことを知る。

そうして自分にできないことが多くあること知った上で、いかに自身の目的を達成するのか、ここにこの作品の魅力がある。

選択と決断

多くの作品では困難を努力で乗り越える。
エレンもそれは同じだが、努力の描写はを描いたりはしない。そもそも努力なんて描かずとも誰もが何かしら努力をしている。

そして結局のところ、エレンは本当の意味で困難を乗り越えることはできなかった。

何故ならエレンは自身を含む、全てを救うことはできないことを進撃の巨人の時間を通過する能力で知っていた。


父母を犠牲にし、同級生を犠牲にし、最後は自らの命も諦めてようやく僅かな柄の平和を仲間に与えることができたのだ。
僅かとはいえ、寿命を全うするくらいには平和は続いたから、彼らの人生はこれまでに比べればずっと平穏だっただろう。

そしてそれこそが、エレンが仲間に与えたものだった。

進み続けるとは戦うと言うこと

エレンは仲間に平和を与えたいがために、世界の大多数の人類を虐殺した。
かなり安直な発想にも見えるが、外交が功を成さないならば、地政学的観点と文明レベルを考慮すると、これが確実な方法とも捉えられる。

※地政学からみたパラディ島
エレンたちが住むパラディ島は、敵国マーレと比較して文明水準が低い。物量で押されれば敗北は必至となる。

しかし幸運にもパラディ島は海に囲まれた島国だったため、マーレは上陸作戦が避けられない。
上陸作戦は侵攻作戦の中でも非常に困難な戦略であり、膨大な物量と太い補給線を確保しなければならない。

上陸作戦を行うための人員と物量を削ぐことができれば、マーレはパラディ島へ安易に侵攻することはできない。

エレンは最終回で、自身が起こした惨状に対し「馬鹿が力を持っちまったらこうなる」というセリフを残す。

これは悪い意味で捉えれば馬鹿に力や権力を持たせると酷いことになるといった意味がある反面、馬鹿でも行動次第でとんでもないことを起こすことができるとも読み取れる。

いくら強大な力を持っていようと、普通はそれで世界人口の大多数を削ろうなんて、考えはしても実行には移せない。


しかしエレンは実行した。

何度もためらっただろうが、最後には実行した。

その決断を下した根底にあるものは、実際に行動に移すという、誰もができるはずの力なのである。

エレンの本当の強さは進撃の巨人の力ではなく、たとえその力で絶望的な未来が見えたとしても、歩みを止めず、進み続ける力だと言える。

普通の少年が世界を変えることの意味

やはりエレンは普通の少年だ。自称とんでもない馬鹿というのも納得できる。

作中で時に幼稚な嫌味で自分を慰め、格好をつけてみたり、暴力的に振る舞ってみたり、自分の力量の無さを嘆き、何度も自身が世界に対して矮小で惨めであるかを悟る。

だが、それでも、エレンは最後には進むことを選択した。苦しくとも戦うことにした。

何故なら、戦わなければ、進まなければ何も変わらないからだ。

たとえどれだけ自分が普通の人間で、どうしようもなく惨めな存在だとしても、それを許容して立ち止まった先に望んだものはなかった。

そうしてエレンは戦い、進み続けた。

エレンの一生はまさに戦いの日々だったが、そんな男が望んだものは平和だった。
争いと平和は対極のように思えるが、この作品は平和は争いの先にしかないことを描いている。

たとえ何もしなくても、地理や資源といった世界の構造が争いへと発展することは歴史が証明している。
そこには、望もうが望むまいが我々は争うことからは逃げられないという、残酷な真実がある。

望んだ未来が見えたとき、我々は進むのだ。
たとえ自身がごく普通の、才能も何もない人間だとしても進むのだ。

時には戦わなければならないだろう。

だが進むのだ。

たとえ自身がごく普通の人間だとしても、才能も何もない惨めな馬鹿野郎だとしても、多くの何かを犠牲にしたとしても、進み続けたものだけが何かを変える権利を得るのだ。

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