スカイ・クロラとは
いつの間にかプライムビデオで観れるようになっていたので、すでにブルーレイを持っていたけどこれを機に映画を見直しつつ本記事を執筆する次第。
原作は小説、森博嗣著。
原作を読んだことはないが、原作既読のファンの感想を見る限りそれなりに不評のよう。
それもそのはず、今作も押井節がてんこ盛りなのは想像に難くない。
小説と映画のそのあまりあるギャップに耐えかねて風邪を引いてしまった原作ファンもいたのではと邪推してしまう。
押井映画ではよあることなんですよ。
そもそも押井監督は他人の金で映画を作りたいと明言していますからね。
まぁ明言しているだけで映画製作に多くの企業やらが出資するというのは正常なことです。
さて、スカイ・クロラで押井監督が目指したものはなんだったのかと言えば、それはヴィム・ヴェンダース監督が描く時間が引き伸ばされたかのような微睡を独自の観点で再現した映画と綴っている。これは押井監督の著書(というかインタビュー。押井監督の書物はほとんどはインタビューを文字化したもの)”人生のツボ”に記されている。
この書籍によると、押井監督はスカイ・クロラから戦闘描写を全て取っ払ったディレクターズカット版を後々に出す予定だったようだ。(しかしいまだに実現していない。スカイ・クロラから戦闘描写を無くしたら何が残るんだというプロデューサーの声が聞こえてくる)
だが、押井監督の視点はおそらく正しい。この映画は戦闘描写を無くしても成立してしまう。
戦闘描写の前後のカットを観ても、戦闘描写がなくても何があったのかが分かるように構成されている。(気になる人はみてみるべし)
人生のツボ
入り組んだ現代人がいかに己の人生を切り抜けるか、押井監督の視点で記された書物。
押井監督の人生が良いものであるかは客観的な判断に委ねるしかないが、本人曰く宮崎駿より幸福な人生を過ごしているそうな。
ただ爆発的なヒット作もなく、原作者に自分の作品ではないと言われようが、いつの時代においても映画監督として一定数の仕事が舞い込んでいる状態を見るに、ある程度確信を突いていると見えなくもない。
スカイ・クロラの世界設定
スカイ・クロラの世界は終わらない戦争をひたすらに続けてる。
これは劇中の草薙のセリフから読み取ることができる。
戦争を起こさせないために、戦争という悲惨な歴史を教科書の中に記すだけだと不十分。
いつの時代でも戦争という現象を世界の片隅に存在させ続けることで、やっぱり戦争って良くないよねという世論は生き続ける。
そのために国家に代わって戦争を続ける民間軍事企業。
民間人の代わりに戦死し続けるキルドレという兵士たち。
戦況がどちらかに傾くことを防ぐ、戦場の絶対的覇者であるティーチャーの存在。戦争を持続可能にするこれらシステムが周到に用意されている。
この映画が難解に感じる要因として、こうした政治的背景とは裏腹に、主人公を含むキルドレにはそれらに関係する切迫感がないところにある。
キルドレは終わらない戦争の戦死者の代替として用意された身代わりのような存在でありながら、彼らはそんな世界を恨んだり、復讐に燃えたりしない。
彼らの日常は平面化しており、起伏なんてものはなく、タバコとバーガーショップ、風俗ばかりがより身近な現実として描かれている。
そこに緊張感を持っているのは草薙だけである。
殺してほしい?それとも殺してくれる?
草薙水素は緊張感のない戦闘機パイロットとは裏腹に、この地獄のような状況に疲弊している。
同じように途中から登場した三ツ矢も自身がキルドレという存在で、終わらない戦争ゲームに組み込まれた存在であることに悩む。
草薙は世界が平和を維持するために、自分が愛した人を戦場へ送り続けることに心が壊れ始める。
終わらない戦争ほど絶望的な状況なんてそうはない。
この終わらない地獄に終止符を打つ方法は死の他になかった。
函南の前任者である栗田仁郎はついに草薙を自分を殺してほしいと願い、草薙はそれを叶えたことがセリフから明かされる。
草薙はこの世界を呪っていた。世界が平和であるために終わらない戦争を自らに背負わせた世界は敵だった。
だが、草薙にそのシステムを壊せるほど大きな力があるわけでもなく、世界転覆の同志がいるわけでもなく、実現可能な選択肢は自死、あるいは死を望む者を葬ることのみなのだ。
草薙は函南に問う。
殺してほしい?それとも殺してくれる?
函南は後日こう答える。
”君は生きろ。何かを変えられるまで”
スカイ・クロラに流れる時間
上記でも述べたが、押井監督がスカイ・クロラで求めたものはヴィム・ヴェンダースの映画と同じ時間の流れだ。
それは一体何か。
それはスカイ・クロラ全体を包み込む、のっぺりとした平坦な毎日だ。
思い出した時にタバコに火をつけ、適当な言葉を交わし、差し出された食事を素直に摂る。
そんな日常と変わらない時間だ。
だがどういうわけか、こんな平和で安らかな日常でも、それが毎日続くと妙な焦燥感が燻り始める。そしてそれは宇宙規模の質量へと膨らんでいき、目に見えない何かのまま私たちを押し潰そうとし始める。
変化のない日常とは時として私たちを根拠に乏しい”これでいいのか”という葛藤を焚きつけ、行く当てのない変化へと駆り立てる。
不合理な私たちは時として穏やかに連なる時間を拒否し、脈絡もなく慌ただしい何かを求めて駆けずり回るのだ。
函南は自身がキルドレであり、世界平和のための戦争で死にゆく運命であることを察するが、決起を起そうなんてしない。
彼はそんなことよりも、毎日のように触れるタバコやビールの方が何よりも代え難いものだった。
函南は最後、なぜティーチャーへ挑んだか
函南は最後、絶対に勝てないと噂されるティーチャーへと挑む。
援護に付いていこうとする三ツ矢を”これは俺の戦いだ”と制し、単機で隊から離れる。
これは俺の戦いとはどのような意味か。
これは函南自身に現状を変えることができるのか、それを試すための戦いという意味だ。
ティーチャーが無敗の絶対的な敵であるなら、この敵を切り崩せなければ戦争が終わるなんて夢のようなことはまず起きない。
だが、函南は自分にそんな力がないことを誰よりも理解していた。
パイロットとしていくらか腕があると言っても百戦錬磨の英雄には程遠い。
函南にとって、自身が戦争から解放されるために世界の均衡を崩すことよりも、毎日のタバコとビールの方がより現実だった。
”明日死ぬかもしれない人間が大人になる必要ってあるんでしょうか”
このセリフには、函南自身の思想が色濃く投影されている。
大人になるという、あたかも皆身につけて当然だという風に信じられている一般的な概念を函南はいとも容易く切り捨てる。
そんなものは必要な人間だけが養えばいい。
今彼らを支えているのはそんなご立派な思想なんかじゃなく、タバコと酒、そして娼婦たちなのだ。
そして函南はティーチャーへと挑む。
自身が心を寄せた草薙が変化を求めたから。
最後の最後まで、彼は自問自答した。
”いつも通る道だからって景色は同じじゃない。それだけではいけないのか。それだけのことだからいけないのか”
函南はそれだけでよかった。
だが彼が想う彼女はそれだけではいけなかった。
こうして函南は大空へと散る。
彼は世界の均衡を崩せるような何かを秘めた超人などではなかった。
タバコと酒に縋る平凡な男でしかなかった。
しかしどうやら、草薙の表情はほんの少しだけ明るくなった。
世界はあいも変わらず平和の偶像たる戦争を続けるだろう。
だがどうやら、彼女の世界は大きく変化することに成功した。
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