【虐殺器官】クラヴィスはなぜアメリカに虐殺の文法をばら撒いたのかを解説

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※本稿は原作である小説の虐殺器官の解説です。原作版と劇場版ではラストの解釈が大きく違うので注意。

これを読む読者にもそんな人物がいるように、私も人生で多大な影響を受けた作家がいる。

それは今は亡き小説家、伊藤計劃氏だ。

彼に受けた影響というのは作家としてどうこうというよりも、映画や小説といった物語をどのように捉えると面白いのかという点にある。

もちろんそれは結果的に楽しめているのであり、当初は楽しむためにそうした観点を持とうと思ったわけではない。

その話はさておき、今回は氏のデビュー作である虐殺器官について話そうと思う。

もし自信の思考に幅と奥行きを拡大させたいと思うなら、この記事はとても役に立てるはず。伊藤計劃という作家は自身の思想を作品へと落とし込み、読者へと投げかけることが非常に上手かった。

ネット界隈を除けば、氏が残した小説に対して様々な解釈が記されている。だがその中で腑に落ちるものを見つけ出すのはとても難しい。

今回はデビュー作にして、多くの論争を巻き起こした虐殺器官を解説しようと思う。

この記事をきっかけに氏の小説を手にとったり、彼の世界観の理解に繋がれば嬉しい。

伊藤計劃とは

氏は生前いくつかの作品を残している。今回紹介する虐殺器官の他にハーモニー屍者の帝国(死後、円城等氏によって執筆)といった代表作があるが、メタルギアソリッド4のノベライズや短編もいくつか発表している。

メタルギアソリッドシリーズをこよなく愛し、小島秀夫監督とも接点があった氏がその大好きな作品のノベライズを担当したというのは、両者のファンである私は万感の思いだった。

ちなみにMGS4のノベライズも傑作。相当の愛と作品と作者に対する理解がなければこのような小説は生まれなかっただろう。

氏は長い間ガンと闘病しており、作家として活動できた期間は3年となかった。

文字通り命を削って世に送られこれらの作品は、今もなお社会に隠れた不都合な真実を抉り取り、その作風には笑顔で血の涙を流す人間を眼前にしたかのような危うさを帯びている。

今回は虐殺器官の危うさを紐解いていく。

虐殺器官とは

※物語の概要と登場人物

アメリカの特殊部隊i分遣隊に所属するクラヴィス・シェパード大尉は、ジョン・ポールという男を追う任務を命令される。そのジョン・ポールが訪れる国では必ず虐殺が起きるという…

  • クラヴィス・シェパード
    特殊部隊の精鋭。過去に病に伏す母の延命措置を止めたことに罪悪感を感じている。
  • ジョン・ポール
    元広告企業のサラリーマン。彼が訪れる国では必ず虐殺が起きる。
  • ルツィア・シュクロウプ
    街でチェコ語を教える講師。かつてジョン・ポールと関係を持っていた。
  • ウィリアムズ
    軽口が絶えないがクラヴィスと同じ特殊部隊の隊員。妻と子がいる。
  • アレックス
    真面目で敬虔なカトリックの信者。物語冒頭で自殺をする。

虐殺器官は痛みの価値を問う物語

上記の通り、虐殺器官は痛みの価値が問われる物語が終始展開される。より詳細に言えば、痛みを遠くへ追いやってしまった我々が創り上げる社会とはどういったものなのかを問いただしている。

なぜそのようなことが言えてしまうのか、解説を入れつつ物語の核心へと迫っていこう。

クラヴィスの繊細な語りの正体

虐殺器官は終始繊細な語りで綴られている。それは物語が主人公であるクラヴィスの一人称で語られているからで、つまりクラヴィスは繊細な男性であることがわかる。

私はそこに違和感を感じていた。

クラヴィスは特殊部隊の所属であり、優秀な隊員であることは間違いない。非常に厳しい訓練を潜り抜け、知能と体力、精神面もタフな者でなければ特殊部隊なんて到底務まらない。

だがどういうわけかクラヴィスの語りはどこか脆く、母の延命措置を自身の言葉で終わらせたことに大きな責任を感じていた。

下向きな彼の口から未来に希望を持っていることを表すような言葉は一切出てこない。

何に対しても業務的で、悪く言えば他人行儀な立ち振る舞いであり、心惹かれているルツィアに対してもそんな節がある。

クラヴィスはその職業の性質上、多くの人間を手にかけてきたはずだ。明言されていないがi分遣隊の役割は、アメリカに不利益をもたらす人間を秘密裏に処理することなのは間違いない。要は政治の裏庭の掃除屋だ。

多くの人間をアメリカの利益のために葬ってきたクラヴィスだが、どういうわけか自身の母親を手にかけたことだけは自責の念に囚われてしまった。

これの意味することは、クラヴィスは自身の親類を手にかけたことで、ようやく人命の重さを実感したということである。

クラヴィスはマザコンと言われている記事も見かけるが、これは厳密には正しい表現ではないと感じる。

なぜなら、クラヴィスは母を手にかけたことに自責の念を感じてはいるが、母がいなければ何も決められないという描写は存在しない。だが、他の誰かに選択を委ねることで無意識に重責から逃れようとしているような節はある。

単純にクラヴィスは命の重さをよく理解していないことが読み取れる。

クラヴィスの繊細な語りの正体は彼の未熟さ、もしくは幼さからくるものなのだということが分かる。

そしてそれが私が感じた違和感の正体だ。

彼は幼さゆえに繊細で、命の重みも母の死でようやく理解しかけているような男だ。しかしそんな未熟な人間が特殊部隊に所属しているというのはどういうことなのか。

特殊部隊は常に困難な任務を命令される。それに応えられる人間が特殊部隊隊員であることができる。だが、裏を返せが全ての任務は上層部の命令であり、実行する隊員の意思とは関係がない。

重大な選択の全てを他者に委ね、自身は実行者に徹することを極めると、行き着く先は特殊部隊だったというのはあまりにもタチ悪いギャグだ。

クラヴィスというキャラは、自分で自分の選択に責任を負いきれない人間だということがポイントだと覚えておいてほしい。

ジョン・ポールとルツィア・シュクロウプ

相対してジョンとルツィアは罪の意識に苛まれている。

ジョンは戦争から家族を守りきれなかったことに対して。ルツィアはジョンの家族が死んでしまったというのに、自身は不倫に身を焦がしていたという身勝手さに対してである。

ジョンは贖罪の意識から虐殺の文法を用いて戦争という現象をアメリカから遠ざけた。ルツィアは自身の幸せを二の次にして会人として求められる姿を貫いた。

彼と彼女の共通点は、他者の痛みを自分ごとのように感じる能力が備わっているということだ。だから彼らは行動に伴う結果を受け止め、彼らなりの贖罪を考えた。

結果としてジョンは虐殺の文法を使って争いをアメリカ国外から追い出し、ルツィアは分相応の小さな社会性の中で語学講師として地域貢献を目指した。

アレックスとウィリアムズ

i分遣隊ではアレックスが自殺をしてしまっている。アレックスが自殺をした理由は明かされていないが、彼の言葉の端々からその理由を読み取ることができる。

アレックスは敬虔なカトリックだ。そんなアレックスのセリフで、地獄は脳みその中にあるというものがある。

たったの一言だが、カトリックのアレックスがこの言葉を発することには大きな意味があるように感じる。

カトリックは宗教上、罪の意識がとても強い考え方をする。それは果てしない隣人愛を持つために必要なことなのかもしれない。罪の意識がなければ、何をしたら悪いことなのかを分別することなんてできない。

罪の意識とは、他者を思いやる上で必要になる能力なのである。それが人一倍強いであろうアレックスが「地獄は脳みそにある」と言うことはどういう意味になるのか。

アレックスは宗教上、果てしない隣人への愛を体現する立場にあるが、仕事で多くの者を手にかけてきた。

思想と行動に矛盾があるが社会とはそういうものであり、自身の正義と生きるために求められる能力が食い違うというのはよくある話である。

他者を愛せよの教えを信じながら他者を殺害していると言うこと。彼にとってそれは地獄のような時間だっただろう。

だが皆が知っての通り、ほとんどの人間にとって世界は地獄ではない。

地獄のように感じているのはアレックス自身が信じる教えに反し、政治の裏で簡単に人が殺されている事実に対してのみであり、そんなことは知らずに平和に暮らしている人間も事実存在する。

だからアレックスは「地獄は脳みその中にある」と言った。

この世にある地獄とは、あくまで認識の問題であるということである。

これは、物語終盤でウィリアムズのセリフでも読み取れる。

「この世界がどんだけクソッタレかなんて彼女は知らなくていい。この世界が地獄の上に浮かんでいるなんて、赤ん坊は知らずに大人になればいい」

このセリフは、自身がどれだけ大きな罪を犯しているのかを認識していなければ吐くことができない。

アメリカは数々の問題を国外へと追いやり、そのおかげで国内に戦争はなく、飽きたピザを平気で捨てるくらいには裕福となった。

だがその裏では貧困と食糧不足に直面している多くの国がある。我々の裕福さは、そうした満たされない国があり、富が平等に分配されていないからこそ実現できた幸福なのだ。

つまりウィリアムズは、その軽口とは裏腹に自身の幸福がどれだけ罪深いものであるのかを認識していたことになる。

アレックスはついに罪の意識に耐えかねて自殺してしまった。罪の意識というのは膨れ上がると自身を追い込みかねない諸刃の剣だ。だがアレックスが信じるカトリックのように、他者を思いやるには必要な能力なのもまた事実である。

痛みを拒絶した人間の行く末

この小説の登場人物の多くは罪の意識に苛まれている。だが一人だけ、罪の意識が人一倍低い人物がいる。

クラヴィス・シェパードである。

クラヴィスもまた、母の命を自らの手で絶ったことに罪の意識を感じていた。ジョン・ポールの情報を引き出すためにルツィアへと近づいた時にも、多少の後ろめたさを感じている描写がある。

特殊部隊の隊員というにはどこか繊細で頼りなく、それはアレックスも同じだった。

反してウィリアムズは軽薄でありながら、妻と子を地獄から遠ざけるというはっきりとした目的意識を持っているのが二人との違う点だ。

そんな繊細な彼らでも特殊部隊に適応させるためのテクノロジーが作中に登場する。

痛覚マスキングである。

痛覚マスキングを施されたことで身体的、精神的痛みは軽減され、人を撃つことへの罪悪感は消え、体が吹き飛んでも痛みはない。

こうして痛みはクラヴィスから消えた。

痛みを感じない人間が世界を回すと社会はどのように変化するのか。SFというジャンルを用いてテクノロジーが人間の在り方を変化させ、世界の行方を仮定してしまえるところが虐殺器官の優れた点である。

痛みは多くの役割を持つ。身体的に危険な状態を知らせる他にも、他者への共感、反省を与えてくれる。痛みの大半を拒絶してしまうということは、こうした人間としての成熟を大幅に衰えさせることを容認する。

痛みとは度が過ぎると自身を死に追いやるが、ある程度許容できれば自己の成長に多大に寄与する。

こうして人は痛みをもって共感性を養い、許容し、赦し、他者を受け入れることができる人間へと成長する。罪の意識に苛まれた人間が悔い改めることによって、痛みを伴う反省が未来へと繋がっていくのだ。

だが痛みが消え、クラヴィスの成長は止まってしまった。特殊部隊の精鋭だとしても、倫理観それほど高い描写はない。

現実に、仕事で高い能力を持っていても、倫理観が低い人間というのは珍しくない。

クラヴィスの選択の真意

物語の最後、虐殺の文法を用いてクラヴィスが何をしたのかは知っての通りである。

虐殺の文法をアメリカにばら撒き、アメリカ国内を混沌へと叩き落とした。

ここから先の解釈は非常に大事な局面だ。ここに虐殺器官で最も重要な思想が詰め込まれている。

作中、クラヴィスは国外へ押しやった戦争を引き受けることにしたと言っている。引き受けたことに間違いは無いが、この言葉をそのままの意味で捉えてしまうと、非常に重要な事実を見逃すことになる。

クラヴィスは痛覚マスキングによって痛みを取り除かれ、痛みによる恩恵を失った人間である。行動の動機は幼く、そのほとんどはいたって個人的な理由であることが多い。

例えばルツィアがウィリアムズに殺されたとき、任務を放棄して躊躇いなくウィリアムズを殺害した。これは特殊部隊員としては致命的にその資質を欠いた行動である。

そんなクラヴィスが世界のために戦争を引き受けるなんて慈善をするわけがない。

だから戦争を引き受けたことは間違いないが、それが世界のためというのは真っ赤な嘘である。

クラヴィスは超個人的な理由でアメリカ国内に争いを起こした。

その理由とは何か。

それは戦場が唯一、母の命を自らの手で絶ったことへの自責の念が軽くなる場所だったからである。

そもそもクラヴィスがなぜ特殊部隊に所属していたのかというと、そこが最も死(地獄)に近いところだからだ。

作中でクラヴィスがよく見ていた死者の世界の夢では、死体となった母がクラヴィス自身も死体へと変化させ、死の世界を導いてくれるといった描写がある。

母親の命を自らの手で終わらせたことの罪の意識を軽くするには、自身も死に近づくことだった。死の世界の夢は贖罪の意識で生み出したものであり、その夢である死者の世界に最も近い場所が戦場だったのだ。

作中でクラヴィスは、何度も戦場へと足を運ぶことになる。痛覚マスキングを施された戦闘員同士の戦いはお互いがぐちゃぐちゃ、文字通りのミンチになるまで銃を撃ち合い続けていた。

中には上半身と下半身がバラバラになっても戦闘する者もいた。これはクラヴィスが見ていた死者の夢と非常に酷似している。戦場にいる間だけクラヴィスは贖罪を実感していた。

要は自身が酷い目に遭うことで罪の意識を和らげる、ある種の自傷行為と言える。クラヴィスがアメリカ国内を戦場へと変えたのは、自身を戦場(地獄)へと追い込み、自己の幸福を諦めて死者と同じ世界で生きることが母への贖罪だったからだ。

幼稚な言い訳を並べて自身の行いを正当化したものが”世界のため”という言葉の真意である。

今もなお人々へ問いかけ続ける伊藤計劃

痛覚マスキングとは何も未知のテクノロジーなどではない。

我々は知ってか知らずか、その痛みを曖昧にする方法を知っている。

例えば本質の曖昧化。

派遣社員と言えば働き方の自由化のように聞こえるが、本質はただの非正規雇用である。パパ活と言えば間抜けで可愛らしさすらあるが、その本質はただの売春である。アベノミクスは国民全体の成長ではなく資本家の更なる巨大化、権力の集中だった。

虐殺器官の作中通り、我々は今もなお言葉に騙され、その本質を見抜けずにいる。

本質へと足を踏み入れれば、そこにはとても痛々しい現実がある。

しかしそれを怠れば、体ばかりが大きくなった未成熟な大人ばかりが闊歩する社会が誕生する。

虐殺器官ではついに、未成熟なクラヴィスが虐殺の文法という巨大な力を手にいれることで、自分自身のためだけにアメリカを滅茶苦茶にしてしまった。

そしてそれは当然の帰結と言える。

クラヴィスが他者の痛みを理解できるはずはない。

彼は痛覚マスキングに守られ、穏やかな気持ちで人殺しができるのだから。

彼のように私たちもまた、数々の痛みから守られている。

競争は消され、悔しさや無念さは過去のものになりつつあるし、そんなことをしなくても安寧と平和が約束されている。

だがそれ故に、私たちは成熟した倫理を失ってしまったのかもしれない。誰もが痛みを理解できなくなり、そしてそんな人が社会へと進出し、世界を回転させるとどうなるのか。

虐殺器官はそんな世界を垣間見せてくれる。

何よりガンという大病を患いながらも、その苦しみには価値があると見出し、同時に現代を生きる我々が失ってしまったものを作品へと投影することができた伊藤計劃氏の慧眼と作家性は驚嘆に値する。

現代の罪と罰

虐殺器官の宣伝文句に、”現代の罪と罰”いうものがある。

罪と罰はドフトエフスキーの古典文学の名著だ。

この表現は言い得て妙で、罪と罰が過剰な自意識のあまりに罪悪感が増大し、自分自身に苛まれる物語なら、この虐殺器官は贖罪の意識が欠けてしまった人間の物語といえる。

そうした点でみると、虐殺器官と罪と罰は確かに同じ罪の意識を題材にしている。

たが、両作品の主人公は同じ罪の意識に苛まれながらも対極に位置している。

罪と罰の主人公、ラスコーリニコフは自身に言い訳を重ねながら非道の正義を貫いたわけだが、結局は自責の念に耐えられなくなってしまった。

クラヴィスも同じく、自己に言い訳を重ねながら非道を行ったわけだが、それはあくまで超個人的な自己実現が目的であり、罪の意識はあくまで母に対してのみ感じているのであって、他人に対しては全くの無頓着だった。

罪と罰は自身の罪悪感の相対を、社会一括りに対して行っていた。

しかし虐殺器官は罪悪感はあくまで特定の人物に対してのみであり、それを取り巻く社会全体は意識の外側へと追いやっている。

虐殺器官は、現代人とは特定の人物、或いは条件下においてでしか罪悪感を抱かなくなってしまった事実を突きつける。

我々はテクノロジーの厚い庇護の元、幸福であることを義務付けられ、そして誰も思い出すことができない、人として備わっていた機能を失ったのだと。

多くの人にとって、海外の戦争なんてどうでもいいことなのは皆知っている。

ウィリアムズの言う通り、私たちは世界がどれだけくそったれかなんて知らずに育った。

そんなことに意識を向けずとも、完成された私たちの社会は幸福の指針が詰め込まれたオードブルを差し出してくれる。

見たく無いものはテレビやメディアから一掃され、クリーンで面白みもないが、同時に誰も傷つかない、安心な情報ばかりが映し出されるようになった。

伊藤計劃氏は誰も見向きもしないそんなものにフォーカスしては、異様に拡大化し、我々の眼前へ並べる。

そして私は、自身の痛みがまだ機能しているのかを確認せずにはいられなくなる。

私の痛みはまだ機能しているだろうか。

それとも既に失われてしまったのか。

今もなお燦然と輝くSFの名作。

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