【終幕】シン・エヴァンゲリオンは虚構と現実が交錯する物語

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社会と家庭の摩擦

前作のQから8年越しのシリーズ完結作。間にシン・ゴジラを撮ってファンから叩かれたり、ガイナックスと揉めたりと、何かとトラブル続きで不安を抱えながら公開された本作。

Qであんな終わり方をしてどうやって物語を畳むのか、悪い意味でドキドキする反面、シン・ゴジラでバキバキのポリティカルをやってのけた庵野映画となると期待しないわけにはいかんでしょう。そしてそんな不安は杞憂でした。ファンは観て然るべし。

まず、この映画はシンジとゲンドウの壮大な親子げんかです。

世界を犠牲にしてでも自身の望みを叶えようとするゲンドウは、ハリウッド映画のステレオタイプな悪人になってしまいましたが、元よりエヴァとは一貫して社会から距離を置きたい人間のどうしようもないモラトリアムのような作品なので、今更気にしても野暮ってもんです。

それにしても、自分が望むままの世界を創るために世界を犠牲にするなんて、擦り切れるほど使い古された設定を今風に調理した庵野監督の手腕は賞賛に値します。

つまるところこの映画のゲンドウは、自身の嗜好に合わせてくれない社会を拒絶する大人になれなかった大人であり、映画冒頭のシンジくんを現在進行形で続けている筋金入りの駄々っ子なのです。

父親よりも早く社会へと踏み出す勇気を得たシンジ君は未だに自身の中へと引きこもるゲンドウの暴走を止めようとするのがこの映画なのですが、このときの戦闘シーンは特に見どころ満載。


戦場の第3新東京はまるで特撮のセットのような作り物で、ミサトさんの部屋で槍をぶん回したり、撮影スタジオからはみ出したりと、とにかく作り物の空間を演出し続けるのです。人が作り出した空間とは、逆説的に人の想像の範疇からはみ出す事象が起きない世界であり、世界中に氾濫する物語といった虚構を指しています。


全てを思い通りにできるようになったゲンドウは、物語を編む小説家であり、映画を撮る監督であり、作家なのです。つまるところ思い通りに創られた世界とは虚構と同義であり、現実との境界線を曖昧にしてしまいました。

父の内なる想像の世界と現実世界の交差点で戦うシンジ君は、必死にもうやめてくれと父へ叫ぶのですが、私はシンジ君が未だに恥ずかしい青春を引きずりまくる親を諭す子どものようで、何とも体中が痒くなる思いでそれ観ていました(笑)

シン・エヴァは虚構と現実が交錯する

物語の最後、シンジ君はアスカやレイ、カヲル君を助けだしたあと、一人砂浜に座り込んで海を見つめながら、徐々に原画へと戻っていくのですが、私はこのシーンに大変感動してなりません。

虚構(創造=想像の世界)は終わりを告げ、徐々に現実へと還っていくことを原画にすることで演出するという人間の想像力の海のような広大さ、そしてその偉大さは決しては内面へと引きこもるための手段ではなく、外へとアウトプットすることで真価を発揮する力だと言っているからです。

だからシンジ君は最後、マリと共に階段を駆け上り、社会へと踏み出して行くのです。彼らは一度虚構へと逃げ、そしてまた現実へと還るのです。

そこには、ミサトさんに誰かのためではない、自分のために行けと言われて立ち向かうエヴァ破のシンジ君の姿はなく、誰かのために立ち上がるかつて少年だった者の小さな勇ましさがありました。

かつてエヴァに夢中になった、学校で共感や親しい友人を得られず、内側に広がる空想の世界を広げ続けたエヴァンゲリオンたちへ。

さよなら全てのエヴァンゲリオン。今度はその広げ続けた内面を外側へ、社会へと向けて解き放ってみようよ。

その力で君は何にでもなれるのだから。これからの君、いや私たちは新世紀・・・

エヴァはモヤモヤした終わり方じゃないと納得しないという人は、もう一度アニメ版から旧劇版、新劇を最初から観なおして本作を観ることをおすすめします。

まぁここに来て多次元世界オチかよ(最近よく見るようになった気がする…)という意見も分からないでもないですが、エヴァって最初から社会に求められる個人の役割に悩む人間の話なので、ここで文句言っても遅いのです。

本作の最後、ホームの階段を駆け登る、進研ゼミの付録にある漫画の最後みたいな終幕こそが、私は最も相応しいと思いました。


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