【暴れる映像美】”鉄男”という映画

映画のレビュー

私は時々、友人や職場の後輩と映画鑑賞会をすることがある。おすすめや見たい映画を持ち寄って、ルーレットでどの映画を観るか決めるのだ。

 

ある日、職場の後輩と映画鑑賞をすることになった。後輩は”ランボー最後の戦場”を持ってきていた。対して私は”鉄男”だった。ちなみにランボー最後の戦場もいい映画。脚本はスタローン本人らしいけど、ロッキー第1作目といい、スタローンは脚本や監督でもいい仕事をする。

この日のルーレットは私が持ち寄った鉄男になった。初めて鉄男を観た後輩にとってこの映画は衝撃的で、その鮮烈さを同じ職場の先輩に必死に解説をしていたのだが、その言葉が非常に印象的だったので紹介する。

「主人公の男の体が鉄になって、襲ってくる敵と闘うんですよ。でも何故か二人は最後に合体してしまうんですよ。結論を言いますと…わけ分からんす」

 

私はこれを隣で聞いていたのだが、あまりに可笑しくてずっと笑っていた。後輩の解説は何も間違っていないのだが、その内容の突拍子の無さといったらなかった。

映画の感想を言語化するのは慣れていなければけっこう難しい。後輩はこれまで、爆発したり、勧善懲悪だったり、ロマンスだったりと、言葉にし易い映画ばかり観ていたようで、鉄男のような何が起きているかを自分で理解しなければならない映画は初めてだった。

そんな人が、自身に内在する数少ない感想のテンプレートを組み替えながら言い表そうとすると、こんなふうになるのだなぁと、興味深く思う。

冒頭の解説はまるでアイアンマンのようで(内容は全く違うのだが)途中から自分には手に負えないと諦め、結果わけわからんとなったのだろう。

この解説を聞いた先輩は「こんな分かりやすそうな物語の何がわけわからんのかが分からん」と頭にはてなマークを浮かべていた。後輩は伝わらないもどかしさに悶絶していた。

実際のところ、鉄男という映画はこんな映画だ。観た者に何だかよく分からない、行き場のないエネルギーを植え付ける。

物語に解説らしい解説なんてないしセリフも少なく、ほぼ映像のみで物語は進む。かといって映像のみで完全に理解できるかといえばそうでもなく、何となくこういうことが起きているのだろうなと、ある程度想像で補う必要もある。

あぁ、こんな映画もありだなと思うし、これはこれでいいなと思える。

というのも、どのカットを観ても非常に強烈なイメージとして焼き付くし、何度も観たくなる魅力が鉄男にはある。ストップモーションで街中を駆けるところとか、人と機械が融合したビジュアルとか、石川忠の音楽とか、映画を模る様々な要素が強く自身の内側へと叩き込まれていく。

鉄男は端的に言えば、体が徐々に鉄へと変化していく男の物語だ。そうした意味で言うと、後輩の感想は間違っていない。

しかしこの映画には人に内在する衝動の多くが詰め込まれている。普段は真面目に働くあの青年も、クラスのかわいいあの子も、誰も知らないだけでどうにもならない衝動が蠢いている。

鉄男はそれを可視化する。言葉なんて必要ない。なぜなら言葉なんてものでは表すことなどできないからだ。本当は悪いことだと知っている。特殊な性的嗜好がある。

何もかもを壊してしまいたい。そんなものはクソ食らえ。誰もがそうした黒い衝動がある。鉄男はそれを映像で語る。

鉄男のエネルギーに触れると、何も悪いことはしないだとか、どうせ全ては無意味だとか、そうしたネガティブな考えに比べれば、どんなにドス黒くとも、衝動を抱くことそのものに価値を感じてしまう。

「世界中を俺たちの愛情で燃やし尽くしてやろうぜ。ヤりまくるぞぉぉぉぉぉ!!!!」

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