というわけで今日はペキンパーの映画、ワイルドバンチを紹介する。
なんでこの映画を観ようと思ったかというと「押井守の映画50年50本」という書籍を読んで知ったわけで、この本は本人が執筆していることから押井監督の映画の根源にあるものが何であるのかがよく記されている。
ワイルドバンチ
サム・ペキンパーが監督する西部劇。
ペキンパーは暴力シーンにはスローカットが映えることを見出し、作中にスローと細かいカットを多用した。
押井監督はペキンパー映画からは暴力シーンはいかに演出するかを学んだと残している。
ちなみにペキンパー監督の暴力シーンなら「戦場のはらわた」が好き。弾倉を銃から外して投げるカットをスローで見せる演出には痺れた。
これはいわゆる武道の残心と同じ。これをライフルでやることの小粋さといったらもう。
残心がアクションをより引き立て、かつそれをスローにすることがいかに映像を引き立てるかペキンパーも押井監督もよく分かっていた。
今回はこのウェスタンのどこに、押井監督のミームが隠れているのかを探っていく。
ペキンパーが描く暴力の艶
上記の通り、押井監督はペキンパー映画から暴力シーンの何たるかを学んだという。
この暴力シーンというのはグロテスクな描写ではなく、人にしろ物にしろ暴力を振るうカット全般を指している。
ペキンパー監督は暴力シーンにはかなりのスローを入れているが、押井映画ってそんなにスローのカットってあったっけ?というのが正直なところだ。
というわけで押井映画を見直してみると、押井映画では暴力シーンでもごく限られたカットにのみスローが用いられていることに気がついた。
例えばスカイクロラの冒頭、ティーチャーが発射する機関砲から排出された無数の薬莢群や、映画終盤の被弾した戦闘機の尾翼越しに見える夕日だ。
この薬莢が空に散らばる様子は、今何かを破壊しようとする戦闘機の獰猛な攻撃性を剥き出しにする。
押井監督はペキンパー映画のスロー演出から、何かが破壊される瞬間の終わりの時間を見せることができると考えたのだろう。
終わりの時間とはつまるところ死や破壊に辿り着くまでのシーンである。
ゴースト・イン・ザ・シェルでは少佐が多脚戦車のハッチを無理やりこじ開けようとして、自分自身がその力に耐え切れずにバラバラになるというシーンがある。
少佐の義体が兼ね備える強い攻撃性が弾けた瞬間だ。
書籍で映画には映画特有の時間があると語っているが、映画の時間とはつまり、ペキンパーのスローといった映像にしかできない技術から成立する、表現の拡大や誇張のようなものを指している。
誇張という表現は正確では無いので、やはり映画特有の時間というのがしっくりくる。
こうしたスローが誇張では無いというのは、押井映画をこよなく愛した伊藤計劃の遺したブログからも読み取れる。
”映画は創作であるが、その映画を演じた役者がそれを存在するものとして演じている時間がある以上、その時間は事実存在している”
うろ覚えだが確かこんなことを言っていた気がする。
当時は何を言っているのかいまいち理解が追いつかなかったが、押井監督の映画の時間の捉え方を読むとその意味が見えてくる。
今でこそスローのカットは珍しいものではないが、そのほとんどはカッコよく技が決まるシーンで使用されている。
つまりほとんどの演出家にとってスローはカッコよく映るための技法でしかなく、彼らにとってそれ以上の意味はなく、簡易にそれっぽくできるコスパの良い経済的な手段でしかない。
反して押井監督は、暴力がカッコよく映るだけのカットにスローは使わない。
押井監督はあくまで映像に隠れた暴力を引きずり出すときにスローを使う。
だから、これから破壊と死を運びに飛んでいった薬莢が空中に散らばるカットをスローにし、少佐の人生の転換点を義体の破壊で演出する。
押井監督のこうした意図を、書籍が出るずっと前から感じ取っていた伊藤計劃の慧眼には舌を巻く。
アクション≠暴力
つまるところ、多くの監督はアクションの中の映えるシーンがたまたま暴力だった結果、そこにスローを差し込むというのが実情だろう。
押井監督は映えるかどうかではなく、それがいかに暴力的であるかでスローを用いる。
これは美学というか思想に近いものを感じる。
押井監督曰くアクションシーンは劇が停滞するという。
押井監督に言わせれば、アクションシーンよりもあの微睡のような時間のほうがずっと物語が進行しているのだ。
押井監督が物語序盤と終盤に派手なアクションシーンがあるのは、アクションシーンをしつつ物語が進行するのは、まだ何も物語が進展していない序盤と終盤こそだと捉えたのだろう。
ちなみにスカイクロラは、終盤の戦闘シーンを全てカットしたディレクターズカット版を出そうとしたらしいが未だ実現していない。
スカイクロラからアクションシーン引っこ抜いたら何が残るねんという人もいそうだが、これはヴィム・ヴェンダースの演出をさらに発展させたかったからだと語っている。
押井監督の暴力を辿るには
というわけで今回は押井監督の暴力シーンの形を形成したペキンパーのワイルドバンチを紹介したかったが結果としては押井監督の暴力シーンに迫って終わってしまった。
まぁ暴力シーンに迫るとワイルドバンチだけじゃないしね。
戦場のはらわたの方が押井監督の暴力描写により近い気がする。
ペキンパー映画を見たら、より押井監督の映画の根幹にあるものが見えてくるし、こうした視点で映画を観ると、面白い面白くないの枠を飛び越えた会話をすることができる。
これもまた映画の魅力であり、映画を楽しむ手段なのである。
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