押井守の挑戦的怪作『天使のたまご』:その魅力と深層を徹底解説

映画のレビュー

天使のたまごとは

押井映画といえば、泣く子も黙るどころか更に泣き出した挙句、最後は泣くことにも疲れてやがて眠りにつくという暴力的安眠映画として名を馳せているのは言うまでもない。

そんな押井映画の中でもトップレベルで賛否が別れるのがこの“天使のたまご”だ。

この映画、なんと今ならAmazonプライムビデオで観ることができる

なのでこのレビューを読んで、1人でも多くの人がプライムビデオで天使のたまごを観てくれることを本稿の目的とする。

天使のたまごは1980年代にOVAとして公開された。うる星やつらのあの押井監督だ〜と言って観た人が、当時どれだけいてどのような感想を抱いたかは想像し難いものがあるが、押井映画が一般ウケしないことは既に普遍的であったようで、この天使のたまごは押井作品でもトップレベルで難解だ。

そもそも話を完璧に理解することが映画に絶対必要なのか?と、個人的には疑問を呈したいところではある。国語の時間に理解に苦しむ作品なんて結構あった。夏目漱石の作品への理解を小学生に求める文部科学省は自身がどれだけのスパルタンかを再認識するべき。何が言いたいのかというと、押井映画は映画界においては文学であり、映画に対して相当なスパルタだということだ。

だから押井映画はスッキリなんてさせてくれない。観るものは常に問いかけられる。解釈は観たものの人生、経験、思想によって左右され、その数は観た者の数だけ分岐する。

だからここからは私の解釈。できるなら貴方の解釈も聞きたい。

プロットと世界設定

時代はいつだか分からないがあるところに、一人の少女がいた。人工の月が海へと沈む頃に目を覚まし、素足で崩れ落ちた家屋から身を乗り出す。目前には役割を終えた街が永遠にも似た時間の中、更なる崩壊へと歩んでいる。少女は膨らんだ自身の衣服の腹部に視線を落とした。そこには少女からの寵愛を受けた大きな卵があった。少女の精気のない瞳にほんの少しの慈愛で満ちた。

少女は街へと繰り出した。当然だが人っこ一人いない。街には少女しか住んでいなかった。しかし立ち並ぶ建築物は豪奢で、立派な外壁と屋根を携えていた。ゴテゴテとした装飾が施された噴水で水を汲むと、街の店に入り込んでジャムを盗った。とはいえそれを咎める大人は街には既にいないのだが。

大通りに出ると戦車が隊列を成して行進していた。装甲の表面を這うパイプとチューブが大排気量の振動に揺れている。少女が呆気に取られていると人影が視界の端を横切る。眼前で編み込まれた白髪に、光の消えた瞳の青年が少女を見下ろしていた。なんてことはない、人と人の会合。だがこの出会いが少女の運命を大きく動かしていく。

観るべし

とは両手を広げて勧められないのが悔しい。だって勧められるわけがないじゃないですか。世界の説明もなし。登場人物の背景を語るカットもない。全ては想像に委ねるしかないんです。なら私自身はどうなんだと聞かれたら、好きで好きで堪りません。こんなにもこだわり抜かれた映画、今後いつ観られるのやら。というわけで分かり易くて誰もが楽しめる映画を求めるならもうこの記事を読む必要はありません。この映画にそんなポテンシャルはありません。というか必要ないです。

はぁ?映画って大衆が楽しむ娯楽だろ

なのになぜ?と、もう一歩踏み出して思考を試みようとする方のためにこのブログは存在しています。想像の幅を押し広げる楽しみを分かち合いたいのです。

私の考えはさておき、天使のたまごは恐ろしく何も説明されません。何やらこんな世界があり、そこで青年と少女が出会い、二人は何かしらの目的があって行動していて、当然の別れ、二人の未来を大きく左右する・・・これくらいざっくりとした内容の映画なのです。映像と音で物語は進み、大切なことは何一つ明かされません。おそらくこういうことなんだろうなと思いを馳せるのみで、満場一致の答えなど存在しません。それはまるでヘルマン・ヘッセの詩を読んでいるかのようで、ぼんやりとした掴みどころのないストーリー性はしかし、少ない言葉を補ってあまりある情報が映像に詰め込まれています。

この映画を観ていると映画の説明セリフって不要だなと思う反面、それは綿密に計算された演出とカットのお陰で可能となっているのであり、起きている事象なんて登場人物にそれっぽく喋らせておくのが最も簡単な演出なんだろうなぁ。

けど押井監督はそれを許さない。それが当たり前な世界においてキャラクターが説明口調でベラベラ喋ることの違和感と言ったらない。私が愛してやまない小説ディファレンス・エンジンだってそう。細かい小道具の説明なんてしない。一つの世界を作り上げるというのは、それを作り上げている製作者自身も彼らと同じ視点へと降りる必要がある。上空から見下ろすだけでは彼らの一挙手一投足を捉えることはできない。

私たちは演者である青年と少女が住む世界に思いを馳せることしかできない。彼らと同じ視点へと降りるには、こちらから歩み寄るほかにない。そうやってようやくこの映画は真価を発揮する。カットの前後から世界で何が起きたのかを読み取り、そこがどんな世界だったのかを推察できたなら、そこに住む彼らの心情が見えてくる。

その世界で生きるとはどんな気持ちなのだろう。

何を糧にしているのだろう。

そうするうちに、やがて自身の思考が日常から大きく離れていることに気づくだろう。そうやっておおよそ見たこともない事象すら、私たちは自分の理解の範疇へと収めることができてしまう。

想像とは、埋めることのできない空白を補うことができる。

我々の間には常に空白がある。

それは物語の繋ぎ目であったり、歴史の狭間だったり、他者との距離だったりと様々だ。

この記事は、私とこれを読むあなたとの空白を埋めるためにある。

天使のたまごを観たあなたの空白を埋めることができたなら、これ以上のことはない。

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