「物語だらけね、街は。人間を支えてくれるイメージや物語でいっぱい。みんな、物語を信用できなくなって、苦しくなーれ」
上記の台詞は、不治の病を患った主人公、サマンサ・ウォーカーが悲惨な現実を強制的な感情操作によって、歓喜を帯びながら世界へと放った呪いの言葉だ。
ネガティブから抜け出そうと、必死の思いで操作した感情は、ポジティブな怨念となって街へと消えた。
今作品は、人間と人工知能の恋慕という、過去に擦り切れるほど扱われた設定に目を引かれがちだが、この物語の真髄は病に冒された人間の惨めさ、儚さに満ちた生活の圧倒的なリアルさにあると私は感じている。
死を感動的に描いた作品は、小説や映画に限らずに世界中に氾濫している。彼らには常に寄り添ってくれる恋人や家族がいた。その方が物語は展開しやすく、視聴者の共感を得やすいし集客も見込める。だがそうした作品が良いものであるかは別の話である。
否応なく現実へと向き合うことになるサマンサ
この物語の主人公、サマンサ・ウォーカーは冒頭に不治の病を患うことになるのだが、彼女には上記の共感的映画の人物たちと違って、恋人も子どももいない。
家族は田舎に住む父親と母親だけだ。だから劇中で、彼女の不遇な運命を共に悲しんでくれる人物は驚くほど少ない。彼女はたった一人、いつも通りの生活の中で徐々に衰弱し、人並みにできた当たり前のことができなくなっていく時間を孤独に受け止めていかなければならない。
だからこの物語の悲しみは、恋人同士が結ばれない運命という悲劇ではなく、一人で病んでいくことを受け入れなければならない、誰にでも起こり得る、幾多の街の片隅で起こったであろう一般的な悲劇だ。
だからこの物語は、急に超人的な力に目覚めるアメリカンヒーローといった我々の生活からは程遠い夢のような話はではなく、我々でも経験するかもしれないレベルの悲劇なのである。
私はこれに痛く感銘を受けた。この作品にはほぼ恋愛と呼べる要素はない。
しかし、この物語を読み進めるにつれ、誰かとの繋がりを求める自身に気がついた。たった一人で消滅へと向かうことの恐ろしさったらなかった。気が付けば私は、この物語を自分ごとのように眺めていたのだ。
死と向き合うこととは何か
今日において、結婚に大きな価値を見出せない人は珍しくない。私もそうした考えが少なからずある。楽しもうと思えば1人でいくらでも楽しめる時代だ。そうした自己完結型の思想はもはや何も珍しくはない。だが私は、どうやら考えを改めなくてはいけない。
どれだけの功績、富を築いたとしても、死という圧倒的な絶望を前にしては、どちらも霞んで消えてしまいそうに思ってしまった。もし私が死を目前にしたとき、そのとき隣には誰がいるのだろうと考えてしまっていた。このとき、人との繋がり、恋愛、結婚といったものが急に身近なものへと変わっていた。人との繋がりが、これほどにまで死と密接だったことに驚いた。
この物語は最後、このような言葉で締められる。
こうして、サマンサ・ウォーカーは、動物のように尊厳なく死んだ。
これこそが、我々皆が所有する死の正体なのだ。どれだけの成功者といえども、死の前では全てが動物なのだ。どんな強固な意思をも跳ね返す、圧倒的な自然の摂理なのだ。
残念ながら動物である限り、死を乗り越えることはできない。それは、所詮は人間も動物であることを意味する。
そのとき、動物である私たちに許された数少ない、そのあんまりな現実を少しでも和らげる方法があるとするなら、それはあなたの隣にいる誰かの存在なのかもしれない。
何故なら、この絶対的な悲劇を和らげてくれるものは、共感だけだからだ。私の死を悲しみ、共に涙を流してくれる人だけだからだ。
1人でも生きていけるという言葉には、今後は気をつけて向き合わなければならないだろう。孤独でもいいと、半ば諦め気味に発する人間はこれまでに一度でも死を意識したことがあるのだろうか。
生きているという、長い夢のような時間はいつかは終わりを告げる。そしてもう、目覚めることはないのだ。
我々は常に死と共にある。
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